後から思えば、糸口はそこら中にあったのだ。
どんな非難や悪罵も悠然と受け流す懐の深さ。
何に対しても己を変えない、しかもそれが当然であると納得させる、芯の強さ。
それはこの平和な国でせいぜい18年と少々生きた少女には、決して持ち得ないものなのだ。
いつかの話
「で、ここでこうなるわけだな。分かったか諸君!?」
「全然分かりません」
「何だとォ!?」
3年前からまるで変わってないコントを繰り返しているシジマに苦笑していると、一人の男子生徒がぼんやりと窓の外を見下ろしているのに気づいた。
近づいてシャープペンで机をノックすると、「うわグリーン先生、」と慌ててノートを開く。
一体何がこの生徒の気を引いたのか。気になってちら、と窓の外を見ると、グラウンドで女子生徒たちがサッカーをしていた。ジャージの色からして、3年生だろうか。
「いや違うんスよ。マジで先輩足はやいなーって、そんだけですって、いやマジで。ブルマ廃止したやつ死ねとか思ってないッスから」
「墓穴掘るか計算間違えるかどっちかにしろ。…?」
「あの、今、ボールキープしてる人ッス。オーラ違いますよ」
思わぬ名前の登場に、再び眼下を見渡す。
今ボールを持っているのは、センター近くに立つ女子生徒だった。ボールを足裏でコントロールしながら、相対するプレイヤーの出方を見ている。グリーンは息を呑んだ。
いつもは下ろしている髪を一まとめにしてはいるが、それは確かにだった。
耐え切れずに相手選手が距離を詰めてきたタイミングで、フェイクを交え振り切り、ノーマークの味方選手にパスを送る。ドリブル、パス、ドリブル、シュート。
今度はマークが薄いと見たか、自ら上がる。速い。こぼれ玉を捕らえ、距離を詰める。シュート。決まった。
「せんせー、なんでここの内積って出せんの?」
「ベクトルの作る角の範囲は?」
「0から180度。…あー、なるほど」
机間指導で教室を回りながら、グリーンは思う。
この教室の中にいる生徒だけでも、まとめるのは容易ではない。体育は広い場所でそれぞれ異なることを行う。しかも個人の能力ややる気が直に表れるものだ。
だから授業でのサッカーは我も我もと全員がボールに固まるか、逆に一部が動くだけであとの生徒は…となることが多い。
けれども嵐を基点としてボールが回っているために、チームプレーが生まれ得点に繋がっている。ゲームメイカーとして見ても、先程生徒が言ったようにレベルが違う。
しかしどうしたのだろう。ここ二週間、毎日学級日誌を見ているが、が授業に参加したことは一度もなかった。気が向いたのか、それとも出席日数が危ういのか。
いや、気まぐれで授業に出るような気分屋だったら、むしろ操りやすい。飄々としてみえて妙に芯が通っているから、教師は
を持て余しているのだ。よって後者の線が濃厚か。頼むから単位落としてくれるな。シジマ先生のためにも。
「先輩?交通事故に巻き込まれて休学って部の先輩に聞いたけど、嘘じゃね?色々とハンパないじゃん」
「あの人は存在がチートなんスよ。バイクに乗った引ったくり犯を走って取り押さえたとかで、警察から表彰されたり」
「けど断ったんだろ、学校代表なんて柄じゃないって。オレ結構憧れてんだけど。先輩かっこよくね?」
「お前ヒーロー物好きだもんなぁ。オレはもっとこう…出るとこ出てるほうが」
「え?それ教室で言っちゃう?」「うわあんたさいてー」
「(´・ω・`)」
参考になるんだかならないんだか。この年頃の男はどうしたってそっち方面の話に繋がるらしい。さしあたり教育的指導をして、教室を後にする。
しかし分かったことも一つ。は、生徒にはなかば伝説として伝えられているということだ。それは滅多に人前に出ないこと(それは学生としてどうなのか)、とらえどころのない性格、数々の武勇伝に裏づけされたものらしい。
あぁ、非凡なのは認めよう。ただ、こいつが神格化するに足る人物かと問われれば、全力で否定する。
「うぇ…おにいさんどこで人生誤ったの?」
「、」
イケメンの癖にストーカーとか救われない、とが呟くのをまずは小突く。相変わらず口の減らない女である。
髪が汗で張り付いているのを雑に払って、は「今更だけどスーツ熱くない?」と、本当に今更なことを口にした。
そのとき、グリーンは自分が生徒とは別のニュアンスで彼女を神格化していたことに気づいた。
第一に、は制服を着ているものだとばかり思っていたのだ。先程ジャージ姿の彼女を見た時の衝撃は、ここから来るものらしい。
第二に、彼女は美術室にいるものだとばかり思っていたのである。この廊下を使うということは、教室に行くことなくこのまま美術準備室に戻るのだろうが。
「だってさっき見てたでしょ?駄目だよ、授業中は集中しないと」
「!お前が、」
言うな。誰に言われようともこの目の前の人間にだけは言われたくない言葉にグリーンは気色ばんだが、すぐに「オレは大人オレは大人…」と努めて冷静を装った。
しかし冷静になって考えてみれば、3階の人間がグラウンドにいる人間を見るのと、グラウンドの人間が3階の人間を見るのとではまるで勝手が違うのではないか。
しかもグリーンが彼女を見たのは、男子生徒に言われたとき何十秒間だけである。それのみか、その時彼女はまさに競技中であった。
「疑ってる?前、視力良いって言ったじゃない」
「動体視力もか」
「チート性能ですから」
そう言って胸を張ってみせただが、すぐ我慢できなくなったのか笑い出した。「まぁ、バグばっかなんだけどね」
どうやら他の生徒から自分がどう思われているのか、把握はしているらしい。浮いた存在であることの自覚はあるだろうが、そう笑って流せるものなのだろうか。浮名はどうであれ、何度か彼女と接したグリーンには目の前の女がそう並外れた感性の持ち主だとは思えない。
「あぁそうだ。今日の放課後、おにいさんの相手できないんだよね」
「まるでオレが相手してもらってるような言い方だな」
「まあまあ落ち着いて?」
本気で嫌そうな顔をしたグリーンにもう一度笑うと、は「放課後、いないから」とすれ違いざまに背中を叩き、曲がり角の奥へと消えていった。