「疲れた目をしてるな。どうだった?あの子は」
与えられた席に腰を下ろして溜め息をつくと、先に座っていたシジマが、隣から弁当をつつきながら話し掛けてきた。
弁当箱の壁に沿って一列に並んだタコ型ウインナー。好きなのだろうか。
昼休みは無期限ではない。隣に習って弁当を広げる。
実家に帰省している姉の作った弁当は、彩りも栄養も文句の付け所がない。
強いて言うならもう少し量が欲しいものだ。今はまだそうでもないが、今後、帰宅時間が深夜を越えることもあるだろう。夜食の持ち込みは出来るが、指導教官の都合に合わせるためいつ取れるともしれない。食べられる時に食べておくべきだ。それは分かっていても、しかし今は箸を持つ気にならなかった。
「…生徒のことを思うなら、二度と来るな、と言われました」
「ほお、そう来たか。なかなかきついことを言われたもんだな。他には?」
突き飛ばされたことが頭に浮かんだが、グリーンはただ首を振った。
『二度と来るな』、それだけであれば、悩むまでもなかった。彼女とは間違いなく初めて会った。初対面の女にああも拒絶されたのは初めてだった。親の仇でもあるまいし。なんせ、彼女のことで確かに分かっていることは名前だけである。彼女もまた、名前しか知らないだろう。そんな相手に、どうしてああも拒絶できるのか。一人の男として彼女を放っておくことができなかった。
しかし『生徒のことを思うなら』の一文がグリーンに重く圧し掛かる。は、教師としての己を試している。生徒を思って見守る教師にはなりたくとも、放置する教師にはなりたくない。しかし、実経験のないグリーンには、これから自分が行おうとしていることが正しいのだと自信を持てないでいた。分かってやっているのなら相当な女だ。
「どうするんだ?」
放っておいてもいいのだと言外ににおわせたシジマの言葉に、覚悟を決める。
「行きます」
いつかの話
放課後。
下校時刻が過ぎ、空には星が輝きだしている。
下校時刻が過ぎてもなかなか下校しようとしない生徒を校門の外まで追い出すのは、思いのほか骨のいる作業だった。どうしてそうも残りたがるのか。部活が終わればすぐ下校していたグリーンには一生分かり得ないものかもしれない。
施錠の済んだ学校は、教師用に数箇所の蛍光灯が点るのみで、幼少期に無理やり見させられた『学校の怪談』を嫌でも想起させる。
日直の教師に頼まれた校舎の施錠を終わらせたグリーンは、職員室に戻った。
職員室にはほとんどの教師が残っていた。机の上に置かれた実習記録帳を手に取り、今日分のページを開く。
「おぉ、ご苦労。音楽室の窓、一つ残らず閉まってたか?うちのバッハは時々アヒル口になるらしいぞ」
「一つひとつ確認しましたよ。…その噂、誰がどういう思惑で流したんでしょうか」
別棟二階にある音楽室。怪談話になるには場所の条件は良くても、流行のモテ技を追う稀代の音楽家など誰が怖がるものか。
そして別棟一階、美術準備室。誰もいなかった。彼女はあの後すぐに帰ったのか。それとも、生徒たちの中に交じって帰っていったのだろうか。あのペシミズムに満たされた目をして。
「どうした?」
「…いえ、」
「だったら5限の前に帰ったぞ」
図星を指され、グリーンは口を噤んだ。
そんなグリーンを横目で見てシジマは「お前の考えることくらい、分からんわけがないだろう」とひとしきり笑ったあと、声を潜めた。
「早とちりするなよ。今日の早退は前から決まってたことなんだ。…ただな、お前、どうして言わなかった」
心臓が嫌な脈を打つ。
学生時代、シジマがこの声色になるときは、大抵どうしようもない状況に陥った時だった。
グリーンはシャープペンシルを机に置き、椅子を回してシジマへと向き直った。
「さっき、電話で
と話した。そりゃあ驚いた、『実習生を突き飛ばしてしまった、怪我をしてないか』真っ先にそれを気にするあの子もあの子らしいが…、わしは大学からお前を預かっとる。大切な学生の一人としてな。もそうだ。大切な子どもを親から預かっている。何かあった時、何も知りませんでした、は通用しない。分かるだろう?」
「驚きはしましたが、怪我はしていません。……だったらどうして、先生はオレとを引き合わせたんですか」
「お前だったら、あの子の心を開けるんじゃないか。そう思ったからだ」
「そして思った通りに……こんなことを思うのは教師失格だとは分かっているが……に変化があった。
に今回のことを聞いたとき、正直に言えば、嬉しかった。お前には悪いが、あの子が感情を表に出したのはこれが初めてなんだ。…しかし、お前もまた、わしの大事な教え子だ」
そう言って黙したシジマに、グリーンは彼の苦悩が手に取るように分かった。あるいは、それはグリーンが教職を志す身であったためかもしれない。
が何を原因にして心を閉ざしているのか分からない。偶然にもそれを開けるかもしれない者がいる。
けれどもそれは安全を保障できるものではない。現に突き飛ばされたという。だがしかし、こんな申し合わせは二度とないかもしれない。だからといって、教え子一人を犠牲にするわけには、…そう考えているのだろう。
先生としてグリーンの前にいたシジマは、迷いを見せない男だった。あの頃と比べれば、こうして心中を垣間見せるシジマは弱くなったようにも見える。しかし、いやだからこそグリーンはこの男に一層の敬慕の念を抱いた。
「もう一度、に会ってみます」
「グリーン……、」
「先生に言われたからではありません。これはオレの意思です」
だから何があっても気に病まないでください。そう言っても、この人は納得しないだろう。
「しかし、あったこと全て、は、やはり言えません。オレは教生以前に、人として彼女に向き合ってみたいんです。もちろん今日のようなことになれば報告しますし、自分の立場を弁えて接するつもりではいます」
「恩に着る。お前ならそう言ってくれると思ってたがな。……けどなぁ、わしはグリーンを、…いや、グリーン先生をはじめっから信じてるさ。しかし打ち解けろと言ってるわけじゃないぞ、あの子はどうしても一人になるから、少しだけ気に掛けてやってほしいんだ」
吹っ切れた顔でそう言って、シジマは立ち上がった。動きにつられて顔を上げると、シジマの目に涙が浮かんでいるのが見えた。しかしすぐに「指導案添削したから見ておけ」とファイルを投げ渡し、シジマは席を立った。
表紙をめくると、赤字のオンパレード。頭を抱えながら一語一語読んでいくと、最後に『生徒の実態の掴みが不十分』とまとめられている。…オレ、やっぱり教職に向いてないのか?
「一回目の添削に比べたら随分まともになったもんだぞ。どんなに優秀な教生でも、3回は添削してやってやっと一人前の指導案だ。そうじゃなきゃ現職の教師の立場がない」
「そう、ですか」
「理論通りじゃないんだ。どう考えたらそうなる、って意見を、高校生だってぽんぽん出してくる。ほんの数年前までお前も高校生だったじゃないか。オレより生徒の心理が分かってるだろ。…いや、それはあとだ。ほれ」
シジマの手から紙コップを受け取る。持った場所から温かみを感じた。中は茶色く、溶け切れなかったのか極小さな白い粒がぐるぐると回っている。口をつける。「…これ、ココアですか」 味のないコレを、飲み物と形容していいのであれば。牛乳で溶かすココアを湯で作ったらこんな味になるだろうか。
「はココアが好きなんだ。飲んでいる間はなんでも聞いてくれる。まぁ、そんな糞不味いモン出したら一生口利いてもらえなくなるがな!」
ガッハハハハハ!!と口を開いて笑うシジマに、グリーンは思わず半眼になる。
向かいの机の先生が見かねて、口直しにと飴をくれた。お礼を言って、包装紙を開けて口に放り込む。見た目どおりのレモン味。口の中で転がしていると、次第にココア(仮)の後味が消えていった。味が無いのに後味とはおかしいが、しかし何ともいえない嫌な感じが確かに舌に残ったのだ。
「牛乳は一階の自販機で売っとる。そこのレンジはいつでも使用可能だ。ココアはオレが常備してる。好きに飲め」
「…シジマ先生、甘いものを禁止されたと言ってませんでした?」
「お前はいらんことまでよく覚えとるなぁ。自分用じゃなく、あの子用だ。…けど、たまには、なぁ。…いや、オレのことはいいんだ。明日からはそれで頑張ってみろ。あとは生徒に助けてもらえ。ただし、頑張り所を見誤るなよ」
「まずは明日の3限ですね」
「初授業は例外なく当たって砕けるもんだ。骨は拾ってやるから、盛大に砕けてこい」