この世界にやっぱりあなたはいなかった。それが分かったとき、わたしは、『私』をなぞろうと考えた。あの一番楽しかったときを描いて、少しでもあの世界に近づく。描くことで『私』がしてきたことを繰り返せば、この寂しさも、悲しみも、少しは無くなるだろうと思った。思ったようになることはなかったけれど、図鑑を作ることだけは続けようと決めた。
わたしの描くあなたを好きだといってくれる人がいた。動いているところが見たい、輝く一瞬が見たい、そう言ってくれた。
そんなの、わたしだって、出来ることならもう一度見たい。でもそれは、あなたを見世物にしたり、この経験を売り物にすることになるだろうか。
それは嫌だ。だから全部封印することにする。あの世界での経験や思い、会いたい気持ち、全部押し込めて忘れてしまおう。
でも、今更思う。
本当に、これでいいのか。あの世界でたくさんの人に愛されたように、時空を越えて、世界を越えて、あなたたちはたくさんの人に愛されるべきではないのか。
あの世界で子どもにも大人にも必要とされていたように、この世界でも、あなたを必要とする人がいるのではないか。
そうだとしたら、わたしはやっぱり最低な人間だ。
いつかの話
「相手が求めているのは、風景画なんですか?」
「いや、幻想画だ。打診は在職中から何度もあったそうだ。もう描くつもりはないとあの子は断っていたが、今回ばかりは折れた。さっきの電話はからだったんだ。『条件付で、描くことにした』と、言っていたよ」
「が乗り気じゃないことを知ってて、先生は何もなさらなかったんですか?先生が言えば、」
「しないわけが無かろう。何度も話し合った結果、わしは口を出さないことに決めたんだ。は、周りが何を言っても言わなくても、最後は自分で決める子だ。今回だって、納得したからこそ了承したんだろう。そう思うだろ?」
問われて、グリーンは口を噤んだ。
確かに、彼女は同世代の男女に比べれば、妙に据わった性格ではある。しかし、そこまで強い人間かといわれれば、疑わしい。確かに技能的には優れた面も多いだろう。
現にこの学校の生徒は、彼女をチートと称している。
もし、シジマもまたをそういった目で見ているとしたら?
彼女に、行き過ぎた理想像を押し付けているとしたら?
行き着いた推測に、しかしグリーンは内心で首を振る。グリーンが彼女と接した時間は、シジマのそれに比べてずっと短い。己の直感など当てにならない。シジマがそう言うなら、グリーンの推論よりよっぽど可能性がある。
「大体、この話は出来過ぎだ。美術館は多くの人が来館する。相手は高校生画家というセンセーショナル性ではなく、の才を評価してくれている。将来を考えれば、今は納得できなくてもこのチャンスを掴むべきだろう。……そして、これはまぁ個人的な意見だが、この生き物たちがもっと大きなキャンバスに描かれるのを、わしは見てみたいぞ」
大きなキャンバス。わざと照明を落とした展示室の一角で、スポットライトに照らされる一枚画。想像して、グリーンは生唾を飲み込んだ。
海の中で、森の中で、川の中で、街の中で、このモンスターたちが生きる。戦う。痺れるようなバトルを、心震わすような駆け引きを、…――あぁ、それは、どれだけ胸が躍る光景だろう。
「……オレ、は…、オレも、」
「うぉ、もう7時半じゃないか!!おいグリーン先生、見回りしたか!?」
「あ!いや、まだです!今すぐ行ってきます、」
「気をつけろよ、いつも以上にしっかり見て来い。懐中電灯いるか?怖くなったら叫べよ」
「いりません!叫びません!」
……あぁ、やってしまった。思い返せば、あの画集を見るだけでも随分な時間を使っていたのだ。
こんな時間に生徒が残っているとは思えないが、不審者や物取りの可能性はある、念入りに確認して回らなければならない。
一つ一つ施錠を確認して、本校舎の見回りを終える。
すでに施錠されていた渡り廊下の錠前は鍵束の中から選び出して開け、別棟に足を踏み入れる。
……それにしても、今日の校舎はなんと暗いのだろう。
窓から空を見上げるが、星があるばかりで、月は見えない。
そうか、今日は新月か。こんな闇の中だったら、一匹や二匹くらいモンスターが潜んでいると言われれば、今日ばかりは信じてしまいそうだ。あの紫のモンスターや、人形のようなナリをしたモンスター、それと…、
「…ぅ、…ふ、…っく……」
「!?」
…想像したのがいけなかったのか、タイムリーに響いた『か細い女の泣き声』にグリーンは足を止めた。左右を見渡し、聞き耳を立てる。音の発信元はどこだ。近いのか、それとも遠いのか。声からして、女子生徒か?一体どこに、…聞き耳を立てるが、今度は何も聞こえない。しかし、あれは、聞き間違いではなかった。……クソ、隅から隅まで見回る他ない、大体何故オレはこのタイミングで音楽室にいる、
「……いない、」
グラウンドピアノの周辺、歴代の音楽家の肖像画付近、楽器が雑然と積み込まれた音楽準備室、どこにも、何も、いない。ここじゃなかったのか?上は家庭科室だ。準備室も、廊下の窓も、全て確認済みだ。施錠もされていたし、階段を昇るような音は一切無かった、下は……
「…あの馬鹿か!!」
階段を駆け下りる、夜の学校の階段は明かりが点っていても不気味ではあったが、ただひたすら降りる、踊り場、と左足が宙を踏む、一瞬浮く身体、手すりを掴んで更に足を出す、…着いた、一階、
「…ぅ、っく、」
美術室か、違う、あいつがいるのは、 すでに半開きに開かれていた扉を、力任せに開ける。
「お前馬鹿だろ!?」
「うわぁ!?」
勢いよく開かれたそれは反対側のサッシにぶつかって大層な音を立てたが、グリーンは気に掛けることもなく怒鳴り声をあげた。
「こんな時間まで一人きりで残っていて、何かあったらどうするつもりだ!大体、どうして学校に戻ってきた!?」
「……なんで、」
消え入りそうな声に、急に冷静になる。室内をよくよく見てみると、膝を抱え、石膏像に背を預けるの姿が映った。暗がりの中で、二対の瞳が鈍く光っている。
グリーンは手探りで電灯のスイッチを探した。確かドアの左側にあったはずだ、伸ばした左手が何か硬いものに触れる。
「やっ…、だめ、つけないで。」
しかしグリーンの動きを読んだかのように響いたの言葉に、咄嗟に動きを止める。
今まさにスイッチへと触れた指は離さず、グリーンは問い返した。
「……どうして」
「え…っと、ほら眩しいじゃん」
「別棟の施錠は、部活終了時刻から30分後だ。それから一時間半も電気もつけずにここにいて、目が慣れていないとは言わないよな」
「…そういう、理詰めで話すのは好きじゃないなぁ、わたし」
「つけるぞ」
「だからやだって!」
撥ね付けるような拒絶の声に、グリーンは諦めて手を下ろした。
階段の光が届くぼんやりとした闇の中でも、だんだん、細部まで見えるようにはなってきた。
は石像の柱の手前に膝を抱えるように座って、顔を埋めている。
先程の声からして、泣き声の発生源は確実に彼女だ。
頑なに電灯をつけるのを拒んでいるのは、勿論眩しいのを嫌がっているからではなく、泣き顔を見られたくないためだ。彼女の性格からして、今は安易に慰められるよりは放っておいてほしいと思っていることだろう。
しかし気付かなかったことには出来ない。ここの鍵を閉めるのは誰だ。オレだ。
「そうやって、いつまでも泣いてるつもりか?泣いたら満足するのか?」
「……泣いてないんですけど」
「すぐにバレるような嘘をつくな。荷物まとめて早く帰れ。家の人が心配するぞ」
「二人とも夜勤なんですけどざまぁ。…けどおにいさんがいつまでも帰れないって言うなら、帰ったげようかな」
そう言って一度鼻を啜ったあと、は立ち上がった。
スカートを手ではらい、床にあった鞄を手に取る。しかし、急に力が抜けたように、がくんと座り直した。腕を伝って滑り落ちたスクールバッグから何かが落ちて床に転がった。
それは携帯電話だった。着信でもあったか、青色のライトが点滅している。しかし中を気にする素振りもなく両手で包むように持ち、は膝を立てた。青いライトが、時々暗闇のなかにの手を映し出す。蛍をつかまえた子どものようだ、とグリーンはおかしな幻想を思い浮かべた。
「あーだめだ、立てない。…おにいさんもおにいさんでさぁ、どうして泣いてたとか聞かないの。気にならない?」
「聞いてほしいのか?」
「うーん…そう言われると微妙。何か面白い話ない?好きな女の子の話でもいいよ」
「すると思うか」
「思わない。じゃあ、わたしの独り言に付き合ってよ」
付き合ったら独り言にならないのでは。察しの良い彼女が疑問を含んだ眼差しに気づかないはずが無いのに、はごぞごぞと身じろぎすると、膝を抱え、背中を丸め、更に小さくなった。
諦めてグリーンは壁に背中を預けて腕を組み、目を閉じる。
「絵を描くの。人並みだったけど、熱心に教えてくれる人がいてね、上達するのが分かるし、描くに描いた。あれ描けこれ描けって無茶振りされたけど、嬉しくて何だって描いた。でもね、その内、どうしても描きたいって思えないものを描けって言われるようになった。
それはまぁ、いわゆる『ぼくのかんがえたさいきょうのいきもの』系でさ、描いてたんだよね。隠してなかったし、覚えてたんだろうね。でも、描く気にならなかった。初めて断った時は、すごく緊張したなぁ。
これはこの世にいません理解されません、描きたくありません、…通用しなかった。けど客寄せパンダ扱いされるの分かってて描けるわけなくてさ、だからずっと断ってきた。嫌だった。嫌だったんだよ、ほんとに。けど、さ、………」
は、言葉にならない言葉を口にし、ややあって沈黙した。
グリーンは顔を上げ、を見た。それからが言い出せないのを見て取ると、口を開いた。
「『条件付きで、了承しました』。折れたんだろ」
その言葉にビクッ、と震え、顔を上げただったが、グリーンの顔をまじまじと見つめると、
「…あぁ、びっくりした、シジマ先生ね。……うん、折れた。もう一度会ってみたくないんかって言われて、会いたい、って答えた。だったら、描くしかない、って、分かりました、って、あぁなんで…、ほんと、わたしって人間失格」
「だから泣いてたのか?」
「……いや?なんで泣けてきたんだっけ」
ここにきて首を傾げるに、グリーンは深く息を吐き、崩されそうなペースをなんとか持ち直した。
…いつまでこの問答は続くのだろう。前々から感じられてはいたが、この女、マイペースすぎやしないだろうか。グリーンの幼馴染と並ぶか、それ以上に我が道を往く性分のようである。
「オレが知るわけないだろ」
「そりゃそうだ。けど、泣いてみたって、すっきりしないもんだね」
「だったら描けばいい。ごちゃごちゃ考えるから自分が泣いている理由さえ分からなくなるんだ。一度、何も考えずに満足いくまで描いてみろ」
「アクリル絵具のニオイで満たされると、頭すっきりとはならないけどね」
「前に言ったよね、あなたの愛称は、わたしの大切だった人の名前と同じなの。でもさ、姿形も、声も、泣いてるのに理由聞かないとこも、全部一緒でさ、……なんで、『ここ』にいるかなぁ。あなたがいなかったら、わたし、折れなかったよ」