いつかの話




そうして私は帰ってきた。

あそこには全部捨ててきた。やり残したことも、大切な人と交わした約束も、共に生きた仲間だって捨てて、私はこの世界に帰ることを選んだ。
でも後悔はしてない。だってあそこは、最後までわたしの世界にはなってくれなかったから。





いつかの話






オレを名前で呼ぶのは、せいぜい家族くらいだ。
祖父がつけた名前は、発音しづらいこともあって、名前が緑を意味することからもっぱら「グリーン」と呼ばれた。
それに違和感を覚えたためしがないのは、赤、青、黄と呼ばれる幼馴染がいるからだ。類は友を呼ぶとは本当のことらしい。

名前で呼ばれない習慣は、大学生になった今でも変わらない。柄ではないが、自分からニックネームを伝えているからだ。名前を呼ばれる度噛まれて気まずくなるよりも、大して親しくない相手だろうと愛称で呼ばれるほうがずっといいと気づいたのは、物心ついてすぐだった。
正直本名を正しく覚えている友人がいるかどうかも怪しいところだが、それはそれだ。


「グリーン先生だ、おはようございます!」
「おはよう。テニス部の朝練か?」
「そうなんですよー、県大近くて。あ、グリーン先生が応援しにきてくれたら絶対勝てる!」
「あー、グリーン先生じゃん!やだ、朝から超ラッキー!先生今日5限来るんでしょ?マジ楽しみだし」


なぜ現役大学生であるのにも関わらず『先生』と呼ばれるのか。塾講師のアルバイトではない、教育実習生というやつだ。

期間は一ヶ月。志望校種を考慮して、実習先には母校の高校を選んだ。
卒業して2年も経てば多少は変わっているかと思ったが、校風も校舎の古くささも相変わらずだった。





事前ミーティングの際に生徒と一緒の時間に出勤すれば良いとは言われたものの、30分は前に出勤することにしている。 指導教官との一日の打ち合わせ。指導案の直し。教材作り。実習生といえどもやることは山ほどあった。

一日のはじめに顔を出すのは職員室。 扉を開く前に服装を見直し、扉を叩く。扉を開け、配属クラス、本名の名乗り、挨拶をする。 先輩方が仕事に励む中大声を出すのは若干恥ずかしくもあるが、他校に実習に行った友人の中には『出退勤時に一分以上抱負と反省を語る』という取り決めを毎日行っている者もいるという。それに比べれば挨拶くらいなんてことない。

出勤簿に判子を押し、いの一番に目に入った大柄な男教師に改めて挨拶する。


「シジマ先生、おはようございます」
「お、今日も早いなグリーン先生!どうだ、教材研究は進んだか?土日寝てないんじゃないか?ん?」
「いえ、少しは眠れました。指導案の添削をお願いします」


シジマはいかにも体育教師、といった体格をしているが、実際は数学教師。 実習の教科担任兼学級担任であり、グリーンが高3の時の学級担任でもあった。今回母校で実習が出来たのも、この先生の取り計らいがあったからだ。

隣の机に荷物を降ろして、椅子を引く。 闇雲ながらに乗り切った一週間、今日から2週目が始まる。これからは実際に授業をすることになる。一層忙しくなるだろう。そう思うと、気持ちとは裏腹に溜息が出た。


「それにしても、よく一週間も女子生徒の猛攻に耐えれたもんだな。昔からお前達は目立ってたが、今はもっと凄いだろ」
「教生は珍しいですから。その内落ち着いてくれるといいんですが」


生徒の登校時間とずらして出勤する理由の何割かにはこれが関わっている。 この学校には珍しい年若い教師、また一ヶ月という限られた期間が女子生徒の勢いに拍車を掛けている。実際、この一週間は嵐のような毎日だった。

教生に休息が無いことは、グリーンも理解していた。生徒との語らいは、たしかに生徒理解に繋がる。だから休み時間に移動しなくてはならないにも関わらず離してくれないといった『可愛い我が侭』は我慢していた。それがいけなかった。 次第にエスカレートした生徒が、他の教師にまで迷惑を掛けてしまったのだ。今でこそ無くなったものの、グリーンを一目見ようとホームルームや授業を抜け出す女子生徒の多さに臨時の職員会議が開かれてしまった時は、グリーンは申し訳なさでいっぱいになった。それでも先生方に「それも貴方の魅力なのだから、誇りに思いなさい」と笑って許してもらえたからこそ、こうして続けることができている。


「まぁ、当分は諦めろ。お前も言うべき時に言えるようになったんだ、その内良くなるさ。そういや、あいつらは元気か?赤いのと青いのは同じ大学だったろ」
「あいつらに環境で変わるような可愛げがあったら、オレの苦労は半分で済みます」


シジマの言う赤いのと青いの、とは、今更言うまでもないが、グリーンの幼馴染の二人のことである。 それぞれ学部は違うが、いまだに縁は切れずにいる。
実習が終わったらお疲れ様会を開いてアゲルとメールが入っていたが、あの様子だと何かかんか理由をつけて飲みたいだけだろう。 それも、オレ達が集まると聞けばじいさんが気前よく援助してくれることまで見越して。


「じゃあ、今日はお前、半日フリーな。午後は2−Fからか。今日から数Uに入るから、数U教科書とワークを忘れるなよ」
「フリーって…どういうことですか?」


たしかに今日午前中に入っているシジマの授業は1つだけで、あとは空き時間だ。しかしそういう時は、他の先生の授業に参加させてもらっている。 それも無しで自由とは、どういうことか。怪訝に思ったグリーンは聞き返す。


「まぁ聞け。オレのクラスにひとつ、空き机があるだろ」
「あぁ、たしか登校拒否だとか…」
「その生徒な、学校に居るには居るんだ。いわゆる、教室外登校ってやつでな……、その子に、会ってみないか?」


2011.09.19. up.

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