卒業式まで会うことがなかったかもしれない彼女達と偶然にも言葉を交わすことができた喜びも、卒業が約束された安堵感も、すっかり怒りに代わってしまった。
それもこれも、全部あいつの所為だ。
……おっと。せっかく手に入れた証明書にシワが寄ってしまった。これから職場体験先に送らないといけないというのに。
慌てて両端を持って伸ばしたり、表面を撫でたりすれば、細かい皺は残ってしまったが、印象を悪くするほどではない見た目になった。よかった。もう一度取りに行くのは面倒だし、あいつと鉢合わせでもしたら正直自分がどうなるか分からない。
繰り返すが、これから先のイベントは卒業の可否に関係ない『職場体験』だけだ。
ノボリも、前世でではあるが、就業体験活動やインターンシップに参加したことがある。
どうやらこれから参加することになる体験は後者のそれに意味合いが近く、研修先がそのまま就職先になるということも少なくないそうだ。だから上級学校への進学やポケモントレーナー(という夢のような職種が本当に存在する)でなく、一般的な就職を希望するならよく考えたうえで体験先を選べよと、この頃は耳が痛くなるほど聞かされている。
閑話だが、この国の人間の平均寿命は、モチーフとなった某国と比べて短い。けれども、短命というほどでもない。そしてポケモントレーナーだけでなく、一部を除いてほとんどの職種で定年退職がなく、生涯にわたって働き続ける人も少なくない。
それでいて成人年齢は10歳だから、総合的に考えると、人生の中で仕事に費やしている割合が前世に比べて大きいことになる。かといって、定時帰宅が普通であるそうだから、勤務時間は少ないようだ、が、日本人気質を引きずる俺が残業せずに帰
宅できるか。いやそもそも働きたくないでござる。働きたくないでござ…
「あ、おい。ノボリ」
脳内でアスキーアートを展開していると、すれ違いざまに名前を呼びかけられた。
振り返ると、いつぞやの少年Aとその友人たちが、廊下の一角で群れを成しているのが視界に映る。あれから二年が経った今も似たり寄ったりの風貌をしていて、俺には見分けが付かないが、果たして声の主はAだろう。カミツレ嬢やフウロ嬢、クダリの他に進んで声を掛けてくるのは、あいつくらいだ。名前は未だに覚えられていない。なぜならイッシュには似たような名前が多いからである。クラスメイトにマイケルが何人いるんだって話だ。
「……なにか?」
「あ、また俺のこと忘れてただろ。いい加減覚えろよな!」
そう言って名乗られるけれども、おそらく明日には忘れるだろう。毎度のことなのでこいつも怒っちゃいない。
こんな無表情な堅物を気に掛けてくれる、いいやつなんだが、友人たちが遠巻きながらに「おい、やめろよ」などと言っているあたり、傍目には完全に優等生に突っかかる不良の図なんだろう。
そんな友人の言葉を意に介すことなく、Aは肩でも組もうと思ったのか腕を伸ばしてきた。そのAの腕に視線を寄せると、その腕の向こう、教室の扉から邪な目でこちらを覗いている女子の姿に気づいた。――まじかよ。あのブロンド年下少女の脳内ですら俺はぶちおか状態なのかよ。なんだか汚された気分だ。――俺の肩を狙って繰り出される腕を避け続けていたらカンフー映画みたいになった。
「ふぅ……。まぁそれはそうとしてさ。お前よりにもよって、職場体験ポケモンセンターに行くって噂、マジ?」
「はぁ……。マジでございますよ。あのクソ弟が勝手に申し込んだのです」
卑俗な表現が飛び出るが、低音が功を奏してAにしか聞こえていないから良い。優等生ノボリは低俗な言葉など知らないのでございますですまし。
にしても、このところろくに眠れなかったしその元凶と常に顔を合わせている環境下、我ながらひどい顔付きと顔色をしていると思うのだが「おお。ガチギレ。オニゴーリみてぇ」などと笑っていられるとは。こいつ特性:せいしんりょくじゃねぇか?と感心する。
「あの別称:戦場のライモンポケセンにねぇ……ま、骨を埋めてこいよ」
Aが呪いのごとく呟いた言葉は果たして真実であった。
「次ー!ダブル初手ぶっぱで4匹だってすっごいねぇ!!」
「先生!マルチで爆発オチ共倒れで8です!!」
「うわじゅんでんぱーちーだおがんどこ」
ノボリの目前をストレッチャーが右に左にと駆け巡る。エスパーポケモンが念力で運んでいるらしい。どう見てもホラーだが、こんなにあわただしくやかましいホラーもあるまい。
それを白衣の天使だとかピンクの悪魔だとか、別称で呼ばれる人やポケモン達が追いかけていく。
「実習生さんそこどいてもしくは草食べさせといてぇ!」
右から。
「だいじょうぶだいじょーぶフィールド技は使えるけど技は使えないから!あ、それ終わったら今度はシングルの方に行ってねー!!」
左から。
ノボリはただひたすら言われるままに動いた。就業体験を受けにきた一般生徒だろうと、この職場にとっては関係がない。動けるものが動く。それこそネコの手だろうと、本気で借りるだろう。それほどの気迫がどこそこに満ちている。不平どころか、休憩すら申し出せる雰囲気ではなかった。
「っあ゙ー!!やっと終わったわ!!!」
だからこそ担当指導者であるジョーイが、ナースステーションのパイプ椅子に勢いよく腰を降ろし、額に浮かんだ汗を拭いながらそれこそビールの一杯でもかけつけたような声で叫んだ時にも、ノボリは心の中で拍手を送っていたのだ。
「あ、あの……お疲れ様でございます」
目前に立つノボリと、ノボリにしては珍しく気持ちを込められたその言葉に、ぱちくりと目を瞬かせたジョーイが、申し訳なさげに眉を下げた。
「あっ!…あー……ごめんなさいね。今日も指導者らしいこと、できなかったわ。今日こそはと思っていたのだけれど」
ノボリが声を掛けるまで、きっとこの女性は自分のことを意識の外に置いていたに違いない。けれどノボリにとってこの人を否定する材料にはならず、それだけ集中していたのだろうと好ましく映った。ここで働く人は、いやポケモンも、みな必死なのだ。
「いえ…、そんなことは」
こういう時にさえうまく言えない口下手な自分が口惜しく思いつつ、今日のレポートを提出する。担当指導者であるジョーイに印鑑を貰ってやっと、今日の実習は終わるのだ。
レポートにも書いたことだが、就業体験に来て3日、ノボリがしたことといえば、瀕死状態で転送されてきたポケモンにふっかつそうを与えること、タブンネに『いやしのはどう』を、ジョーイに代わって命じたことだけだ。ただし回数だけなら新米トレーナーの平均を軽く上回ったかもしれない。やることだけいえば単純作業だが、しかし身をもって学んだこと、見聞きしたものは多いし、そのほとんどは生涯忘れ得ぬだろう。
俺の字を真似してノボリの名前で勝手に申し込んだクダリのことは当分許せそうにないが、いつかは一発くれてから受け入れてやろうとさえ思っている。
ノボリの書いたレポートに目を通しながら、ジョーイは、短い期間ながらも同じ戦場を駆け抜けた身近さからか、幾分か砕けた調子で話し始めた。
「でも、ノボリくんも頑張るわよね。君みたいな子にはつらい職場だと思うんだけど。正直2日持てばいいかな、って思ってたのよ。3日目、つまり今日から体験の時間を終日にしたのは、実はそういう理由なの」
ポケモンに苦手意識を持っていること、時に意識とは別に身体が固まってしまうことは、初日に伝えてある。黙っていてもいいことは何一つないと思ったからだ。なんなら就業体験そのものを辞退すると申し出たノボリに、「だいじょーぶ、こっちにどうにかしてくるような元気のある子はここにこないわ!」と軽くあしらったのが彼女だった。
「否定はいたしません。実のところ、身体は今でも強張りますし、そうでなくても明日は筋肉痛です。けれども、ショック療法、とでもいうのでしょうか、目の前で苦しんでいたら、それがいくら受け入れがたい生き物だったとしても、どうにかしなければと思います。それは、この世界に生まれた人としての道理でしょう」
「うん、うん。そうね。うふふ」
「……しゃべりすぎました」
えらく嬉しそうなジョーイの姿に、なんだか気恥ずかしくなって口を閉じた。そっぽを向いた先に鏡があり、そこに映る俺の口はへの字になっている。内心は大荒れだというのに、いつも通りの無表情だ。
……くそ、ジョーイさんは全俺たちの夢であり希望なんだ。勝てるわけがない。
「そ…、それにしても、バトルトレインの運行が終わると、すっかり収まるものですね」
「そうねぇ。うちはバトルサブウェイから送られてくる子の治療がメインだから。大都市だけあって絶えずトレーナーは来るけれど、設備が整っているから、困ることはないわね」
今日は遅くまで付き合ってもらったけれど、ノボリくんも電車がある内に帰りなさいよ、と両手を組み、身体を弓のように反らせながらジョーイが言う。
ピンク色のナース服に包まれた背中からボキボキと色気の無い音が響いたけれど、同時に胸の形まできれいに出たものだから、ノボリは慌てて目をそらした。
「バトルサブウェイ……、医療関係の方にとっては、どうなのですか?」
動揺を隠そうと咄嗟に投げかけた言葉は、口にしたそばから後悔するものだった。
けれどジョーイはそれに眉を寄せることなく、頭の中の答えを確かめるようにちょっと間を置いてから、ノボリの問いに答えた。
「いいんじゃない?バトルはポケモンの本能、本分よ。それにね、オフの日にはバトルサブウェイに乗車するっていう同僚は少なくないわ。この仕事、いろいろと溜まるのよね……」
そう言うと、腹の底にたまったものを吐き出すように、長く熱い吐息をもらした。なんということだ。色気しかない。生と死が身近で、激務で……、生存本能が刺激されると性欲が高まると聞いたことはあるが、えっちなナースなんて都市伝説じゃなかったのか。みなさん俺の年齢を覚えていますか。そうです、思春期真っ盛りです。
「だから。わたしだって、たまにはね」
ノボリを見るジョーイの目がふいに燐と燃えた瞬間、ノボリは文字通り「食われる」と思い、尻尾を巻いて逃げたのだった。