前世でいえば生活科が終わった。イッシュの学校に生活科があるのかとかそういうことは考えないでくれ。俺が言いたいのは、ようやっと初等科2年生が終わったということ、それだけだ。
今日は修了式。明日からは楽しい楽しい夏休みである。主に宿題が無いという意味でも。しかも前世と違って、夏休みが終わり、次にスクールバスに乗るのは3か月後である。イッシュ万歳。
母親に帰宅の挨拶をし、二人の部屋に荷物を降ろすと、自然と笑みが浮かんだ(あくまで当社比)。
動物園状態だった一年生、訓練された動物園状態だった二年生を陰に日向に如何なく過ごし、俺は今日も品行方正に清く正しく生きている。我儘を通すのは学校給食に対してだけで、あまりのクソマズさ、そして栄養バランスの崩壊振りに、情けなくも母親に泣きつき、毎日弁当を作ってもらっている。
余談であるが、少し語らせてほしい。
前世日本で育ってきた俺の価値観からすれば、ここの学校給食で出されるあれやそれは『食事』じゃない。家畜同然、……いや畜産農業において飼料の質ってのは価格そのものに直結する分重要視されるものだから、昨今の飼料はかなりレベルの高いものになっている、だから家畜の方がいいものを食べているのではないか……と思わずにいられないほど、この学校の食事情は悲しいほどに劣っている。
“給食”は強制でないので、俺のように弁当をもってきている子どもは少なくなく、俺が入学式の日に目を付けたあの美少女たちも1年生の早い段階から弁当を持参してきている。彼女たちの噂は今となっては学年を越えるほどになっているが、もし彼女たちが学校給食を選び続けていたら天から与えられたあの美しいカンバセは影も形もなくなっていたに違いない。彼女たちの親さん方に感謝の意を送ったことは一度や二度ではない。
クダリといえば、肉や甘味ばかりで構成されたここの学校給食は嫌いでなかったようだし、母親の作るものが特別好きであるようでもなかったが(ヘルシー料理と銘打って作られるそれらは、この国の料理としてはかなり薄味・淡白で、見た目も地味であった)それよりも『俺が喜んで食べている』ということに興味を引かれたようで、俺に2日遅れて弁当食になったのであった。
閑話休題。
成績表と空の弁当箱を持ち抱えてリビングに降りた俺とクダリは、無言で視線を交わすと、テーブルの上に成績表を置いてから、台所でじゃがいもの皮を剥く母の左右を陣取った。ちなみに成績の中身は断然俺の方がいい。こいつに勝っても感慨もへったくれもないが。
「母様。ただいま帰りました」
「明日から夏休みね。2年生最後のお弁当は口に合ったかしら?」
「大変おいしゅうございました。いつもありがとうございます」
「うふふ。クダリはどうだった?」
「あのね。ハンバーグ、好き」
「そう言ってもらえるとママも嬉しいわ」
空になった弁当箱を示しながらそう言うと、母は恰好を崩し、手を拭いてから俺達の頭を撫でた。
この歳になって(精神年齢的な意味のカウントで)撫でられるのは実に恥ずかしいのだが、今だけと享受する。
ややあってじゃがいもの皮むきに戻った母の隣に立ち、自分とクダリの弁当箱を水につける。
「クダリ」
「ん」
それから台拭き用の布巾をクダリに渡し、自分はスポンジに洗剤を垂らして揉んで泡立てる。
今日は俺が弁当箱洗い、クダリがテーブル拭きの番である。
ちょうど一年前、1年生が終わった日から始めた『自分たちで弁当箱を洗うこと』は、今も続いている。ついでにしようとした皿洗いは危ないからと止められたので、交渉の末に食事の前後にテーブル拭きをすることになり、こちらも毎日続いている。俺はともかく、歳相応なクダリが文句も言わずやっているので、すごいよな、と認めていたりもする。自分の言動で調子づかせるのはなんとなくムカつくので、これまで言ってやったことはないが。
弁当箱の水を切って、フォークを洗い出した頃、テーブル拭きを終わらせたクダリが戻ってきた。早く終わった方が手伝うと結局は二人とも早く済むと教えてから、クダリは率先して手伝うようになった。洗った二人分のフォークをクダリに渡し、今度は水筒を洗ってまた渡す。クダリはフォークと水筒を軽く振ってから水切りラックに置いた。夏だし、夕食の片づけまでに乾くだろう。
今日のお手伝いを無事終え、クダリに付き合ってリビングでクダリの好きなアニメ番組を見ていたころ、台所からかぐわしい牛乳のにおいがしてきた。
俺は、興味はないものの半端に見るのもなんだからと画面の見やすさを重視したために並んで座るはめになった、隣に座るクダリを無言で見やった。
(…今日もミルク鍋かよ。これで5日連続だぞ。母さんいい加減にしろください。――おい、お前があざとく『あのね、おいしい』首こてんとかやった結果だろ。責任とってそろそろ飽きたって言えよ)
(は?ノボリが言えば?なんだっけ、いい加減にしないと怒るよ?(暗黒微笑)だっけ。やれば。色的にも合ってる)
クダリは、最近クラスで流行っているフレーズを思い出して挙げた。
挙げられたそれは、ノボリにも前世に覚えのある実に痛い記憶である。黒歴史というものは世界が違っても繰り返されるものらしい。しかしまだ小学2年生である。都会だからといってさすがに感染が早すぎるのではないか。
(……いや微笑どころか口角上げるのも無理な俺に何ができるってんだよ。微笑のびの字も無理だっての)
(そうだね。神経科受診しようよ、ノボリ)
(お前が精神科受診したらなクダリ)
(……)
(勝った)
(ぼく負けてない)
(はよ言え)
(負けてない)
(はよ)
人種的な問題で長い脚をこれ見よがしに伸ばしてやると、クソ不機嫌な顔をしてクダリがソファーから立ち上がり、母親の元へと歩いて行った。傍目には口角あがりっぱなし、他称「天使の微笑み」だから、我がことながら詐欺兄弟である。
追って俺も立ち上がり歩く。
「あのね。ぼくトマトがいい」
「あらクダリ、トマト鍋が食べたいの?トマト鍋もヘルシーでいいわよね。明日はトマト鍋にしようかしら」
「クダリは鳥も好きでございまし」
「じゃあ、明後日は鳥鍋ね」
「「……」」
繰り返すが今は夏である。