落ち着け、落ち着け、落ち着け!
ざっと見てまだ20メートルは離れている。体勢低く唸るリクからは15メートル。
どんな手を使ったって一歩で詰められる距離じゃない。
入ってきた扉は5メートル後ろ。
一挙一動を見逃すな。そうすれば避けるチャンスも逃げる隙も、倒す策さえきっと見える。
……、だけど。
無意識に掴んでいた白衣の裾を、ぐ、と握る。
はっきり言って赤の他人だ。名前は知らない。顔もはっきりとは見ていない。
対峙しているのは背後から斬りつけてくるような敵。隙を見せればこっちが殺られる。
意識の無い人間を連れていては、100パーセント逃げられない。
見ず知らずの人間を助けるために我が身を犠牲に、なんて馬鹿げてるとさえ思う。
だけど、置いて逃げるなんて出来る…?
「…甘えのはそのままか、ガキ」
「動くな!!」
制止の声に耳を貸さず、男は歩み続ける。
15メートル…10、メートル……
落ち着け!!
「……ひ、とつ聞く」
「あ?」
止まる。
資料室に異常が無ければ、エリカがすぐにこの部屋へ来るはずだ。
彼女のポケモンは敵を捕えるのに適している。2対1なら勝機が増える。
何でもいい、それまで時間を稼がなければ。情報を集めなければ。無論、真意を気づかれないように。
「何をした」
「はぁ?…あぁ、そいつのことか。別にまだ死んじゃあいないだろ、おしゃべりに付き合ってもらっただけだからな」
「嘘をつくな!質問に答えろ、この人に何をしたのかって聞いてる」
「さぁな?」
睨みつけるが、男は鼻で笑うだけで答えない。
血圧低下、低呼吸、痙攣……人間に関する医学的知識は持ちえていない。仮にポケモンに置き換えると何か当てはまるか……麻痺…いや、毒か?
回復道具はいくつか持ってきている。しかしそれはポケモン用のものだ。人間に対しても効果があったという話は聞いたことがない。副作用があるかもしれない。
木の実もある。木の実であれば人間でも問題無く食べられるだろう。自身、すべてではないが木の実を食した経験はある。ただ同じだけの効能が見込めるかといえば、何も言えない。けれどやらないよりマシかもしれない。
隙を見て食べさせるか?いや、そもそも意識の無い人間に嚥下をさせるとなれば、また別の死因になってしまう可能性の方が高い。どうする…?
――何が、最優先か。それを考えなければ。
エリカはまだ現れない。それとも一人で戦う?リクは指示を待っている。
だが室内は見るからに高価そうな機械で溢れている。水槽の中で光を受けて輝いているのは、例の石たちだろう。
巻き込まずに戦う自信も、余裕も無い。せめてあの通路にさえ誘導できたら、遠慮なしに攻撃の一つも出来るのだが。この研究室の壁の丈夫さはすでに証明済みだ。背中を狙う覚悟もある。
「――そうだな。お前、何を知ってる?知ってる限り話せ。ここにいるってことは、少しは関係してんだろ。俺が満足したらお前のそれにも答えてやるよ」
「……何の、何を?」
「複製機」
「複…?」
知らないと呟くと、男は溜息をついてみせた。
「…本当に、お前は何でここにいるんだ?」
「私が聞きたいくらいだ。――…目的は『石』なんだろ、とっととそこの水槽から盗んで逃げたら?警備員、来るよ」
「欲しいのはこんな石の欠片じゃねぇよ。大体、お前が誰にどう言われたかは知らねぇが、この研究室がやってるのはんな実験だけじゃねぇぜ。で、誰に連れられてきた?」
「素直に言うとでも?そんなわけ、」
「あ、やっぱこっちにもいたんだ」
の言葉にかぶさるように、新たな声が響いた。
瞬間、は身を捩じる。
「この女に連れられてきたんだと思うよ」
シュン、と音を立てて自動ドアが閉まる。
目が合って、侵入者はにこ、と笑った。おとな?……違う。柔らかな頬の輪郭、どう見てもよりすこしだけ年上の子どもだ。黒色の服に全身を包み身体の線ははっきりとは見えないが、どこか華奢な印象を受ける。
だが纏う空気が子どものそれとは決定的に違う。危険だ。もしかしたら、男よりずっと。どこかで警鐘が鳴った。
少年はずる、ずると奇妙な音を立てながら歩き、の隣をすり抜ける。
音の正体はすぐに分かった。見覚えのあるロングスカートが、引きずられるままに床を擦っているのだ。
「エ…エリカっ」
思わず立ち上がりかけるが、理性に邪魔をされる。
駄目だ。一人ならまだしも、今は敵が二人だ。しかもエリカを相手に、何一つ服を汚していない実力の持ち主だ。手の内も分からない。 冷静になれ!
男の傍に立つと、少年は掴んでいた手を放した。ごん、と硬い音が響く。
「ほら合ってた。それで何してたの?珍しいね、あんたがすぐに殺らないなんて。どうみても関係者じゃないのに。それとも何か知ってた?」
「それを聞いてたんだよ。お前が邪魔しなきゃ聞けてたかもな」
「どうだか。あんたの言い方じゃ誰も話さないって。俺みたいにやさしーく聞かなきゃ心開いてくれないよ?でさ、こいつ何にも知らないみたいなんだけど。あ、そいつからお願いしたら話してくれるかな?」
「あんた、この女の友達かなんかだろ?」、
イエスと言うべきか、ノーと言うべきか。
咄嗟に判断がつかず、は男から視線を離して再び見下ろしてくる少年を睨み続けることで答える。
状況は刻々と悪い方向に進んでいる。
頭を打ったのに、何の反応も無いエリカ。
どうなっている、もしかしてこの研究員と同じ状態に?
けれど少年は『話してくれる』と言っていた。
とても無事には見えないが、助かる術があるということだ。それを聞き出すまでは下手に手を出さない方が良策か。
「止めとけ、そいつ相手じゃお前は平気でもここが無傷じゃいられねぇよ。設備壊したら元も子もねぇだろ。それより警備員を呼ばれた。とっとと回収してずらかるぞ」
「え、何、そいつ強いんだ?もしかしてあんたより?」
うわ、バトりてぇ、とモンスターボールを構えた少年に、男が無言で拳を落とす。
「痛って!殴ることねぇだろ!?」
「時間がねぇ、つってんだろ。そっちには目ぼしいもんあったかよ?」
「まぁね。でも鍵パクなんて面倒なことせずに初めからマツモト拉致っとけばよかったかなー、とか思うんだけど。あ、こいつ連れてく?」
「事を大きくするなって言われただろ。その女はそこらの研究員と訳が違う。わざわざタマムシの人間を敵に回しても意味ねぇだろ。それにどうせお飾りの責任者だ、交渉材料にしたってリスクに見合った情報は出ねぇよ」
「はいはい。んじゃとっとと回収しますか」
ちゃんと装置つけられたんだろうね?とにやにや笑う少年に当たり前だろ、と男が吐き捨てる。
見上げるの目の前で、二人が背を向ける。まるで、の存在をすっかり忘れたように。
エリカはいまだ床に転がったままピクリとも動かない。利用価値が無くなったから、捨てていくつもりなのか。
万に一つの気まぐれかもしれない。このまま見送れば、助かるのか?少なくとも私は。……そんなの駄目だ。救う術を聞き出すまでは、絶対に逃げられない。
「答えろ!ここの人たちに、エリカに何をした?言わないなら、ここを壊したって構わない!!――リク、『でんじは』準備。少しでも近づいたら放て」
自分の身のためならまだしも、エリカの身を助けるために壊すのは厭わない。壊れた機械は直せても、一度失えばエリカは戻ってこないのだから。
「……お前さ。ここまでいったら甘い通り越して、ただの馬鹿だぜ」
身体を動かさないまま、男が深く息を吐いた。
隣で少年が楽しげに笑う。
「ま、いいんじゃない?オレ、こういう少年漫画のノリ、嫌いじゃないよ。このまま逃げても、全然構わなかったんだけどね」
「聞きたいならついてこい。ただしそこの電気ネズミはしまえ。――…おい。女はともかくそいつは放っとけよ、どうせ助からねぇんだ」
古めいた扉を開ける。
先ほどの部屋にあったものより一回り小さな水槽、忙しなく動く無数のモニタ――…。
そこは倉庫でも何でも無く、第二の実験室の体を示していた。幾人もの研究員が昏倒している以外には、歪な所は無い。
床に転がる白衣の男たちに一瞥すら向けないまま、二人は目当ての機械の前に立った。
「言っとくけどもう馬鹿な真似しないでね?俺、面倒は嫌いなんだ」
そう言って備え付けのコンピュータと持参したノートパソコンとをケーブルのようなもので繋いだ少年は、少しして唇を舌で湿らせたかと思うとひたすらキーボードを叩き始める。
は男に命じられるまま一つの椅子に座った。ほど近い別の椅子に男が座る。
「今度は正直に答えろよ。オトモダチにどう言われた」
男が顔を覗き込む。
今は殺気を感じないとはいえ一度は殺されかけた相手だ、思ったより端正な顔立ちであることに驚きはしたが、嫌悪しか湧かない。それとも分かってやっているのだろうか。
――あぁ、そういえばはっきりとこいつの顔を見たのは初めてだ。それは相手にとっても同じだろうが。
「……石の効力の研究。そんだけ」
「間違っちゃあいないな、だが肝心な部分が抜けてる。ここでしてるのは進化の石を複製する機械を作る研究だ。違法じゃないが、黒スレスレのグレーな研究だな。あぁ、オトモダチを責めるなよ?多分、そいつもほとんど知らされてねぇ」
これ以上顔を突き合わせているという状況に耐えられず、は顔を背ける。
「……別に、嘘をつかれたとしても、私は責めたりしない」
「不貞腐れるな、ガキ」
「不貞腐れて無い!……大体、何なんだよ!?人のこと殺そうとしてたのに、いや殺したとまで思ったのに、なんでこんな風に」
「俺、お前のこと諦めてないし」
「…は、」
思わず振り向くと、男がニヤニヤと見下ろしている。
「それとも殺して欲しいのか?なんだお前、死にたがりかよ」
お、ま、え、が、死、ね。
口には出さず呟く。
この異常な状況に慣れてしまったのか、すでに恐怖は感じない。
第一、奇妙にも男からはあの時の殺意がこれっぽっちも感じられないのだ。
「……二人とも、ちょーっと静かにしてくれないかな。オレ今もの凄く神経使ってクラッキングしてるんだけど。死にたいならオレが二人とも殺してやるよ、今すぐに」
「…あぁ、わり。あと何分だ?」
「2分だね。そっちの吸い出しは5分弱だな。――…あぁ、それとあんたが期待してる警備員はもう来ないよ。俺のポケモンを向かわせたから。あとその女ほっといても助かるよ。じゃあ黙っててね」
少年の言葉が理解できず、は男を見上げながら首を傾けて見せる。
男はあぁ、と呟くとさっきよりも小さな声で答えた。
「まだ言ってなかったな。お前のトモダチはただ寝てるだけだ。これ以上ないってほど嫌な夢は見てるけどよ。ほっときゃ起きる。ま、今日あったことは忘れてるだろうがな」
嫌な夢…?催眠術、幻覚……だったらエリカ達はゴーストタイプの攻撃を受けたということか。
深い眠りに入っているなら、呼吸数と心拍数の低下はまだ分かる。勿論、それだけが理由だとはとてもではないが考えられないけれど。でも、研究員のあの痙攣は?いくら嫌な夢を見ているからといって、あそこまで身体を揺らすものだろうか?
エリカはぴくりとも動かなかった。けれど助かるらしい。あの部屋の研究員は痙攣していた。もう助からないという。
「エリカは、そうかもしれない。頭ぶつけてさえ起きないってのは、ちょっと『違う』だろうけど。でもあの研究員はまるで違う」
「…相変わらず気持ちの悪いガキだな。……そうだ。答えは」
「「毒」」
2009.06.19. up.
2012.02.23. 改