「あぁ…雨だ」
開け放した障子から見えるのは、何重にも積み重ねたような黒々とした雲。
今はまだ草木が濡れている様子はないが、雨が降るのはきっとすぐだ。それも土砂降りだろう。
咲き始めた花が散らなければいいのだけれど。この街は春が美しいそうだから。
「おはようございます、様」
失礼致します、とかけられた声に軽く衣類を整えてから返事をすると、襖が軽い音を立てて開けられた。
その向こうでは着物の女性が頭を下げている。
カスミの館にいた、メイドさんのような仕事をする人らしい。
もっとも、こちらは彼女の所のようにそれほど親しげに話す間柄ではないようだが。
「昨夜はよく眠られまして?遅くまでエリカ様といらっしゃったようですけれど」
「はい。雑魚寝は何度もしたことがありますが、お布団でこれほどぐっすり眠れたのは初めてです。畳敷きというものも初めてでしたけれど、こんなに気持ち良いものなんですね」
「あらあら、お若いのに経験豊かでいらっしゃいますのね。――大広間でエリカ様がお待ちですわ」
「分かりました。すぐに行くと伝えてください」
失礼致します、と現れた時と同じ言葉で彼女の姿が襖の陰に消える。
――注視していなければ気付かなかっただろうが、ほんのわずかに眉をひそめていた。昨日からうすうすと感じていたが、やはり、歓迎されていないのだろう。
滞在をエリカは喜んでくれているようだけれど、私はどう考えてもこんなお屋敷には似つかわしくない子どもだ。
昨日審判をやっていたアヤカとかいう女性も好意的に接してくれたが、彼女はあの後家に帰ってしまっていない。
レインボーバッチを受け取ったということで彼女たちにも一応は認められているようだけれど、それにしても…
「おはようございます、」
「おはよう、エリカ。……あの、やっぱりさ、せめて呼び捨てってのだけでも……」
彼女たちが一番反応しているのは、この『タメ口』だと思う。
こんな十にも満たない子どもが自分の仕えるお嬢様に対して馴れ馴れしく話かけていたら、眉をひそめたくなるのも当然だ。
「…?今更、何おっしゃいますの。それはそうと、お連れしたい場所がございますのよ。この天気ですし、無理に調査に行く必要はありませんわ」
……流された!確かに昨日、「わたくし、実力のある方とは対等にお話しをしたいのです。もそう思いません?」「はぁ。まぁ、そうですね」などと話しはしたけれど、それがどうして「ではその言葉、お止めくださいね」となったかは、一晩考えても分からない。
やっぱり、お嬢様の考えることはよく分からない。お嬢様じゃなくっても、これまでのジムリーダー達の考えることは分からない。そろいもそろって敬語を使うな、なんて。
…そんなに私の敬語って変だろうか。
「タマムシ大学?」
連れられた先は大きな学校だった。
なんでも、彼女もまたこの大学の生徒らしい。
門番に会釈ひとつで扉を潜る。
大学というものは良く分からないけれどこんなにも人が少ないものなのだろうか、とあまりの人気のなさに首をひねっていると、「休校日ですのよ」と返された。
「世界中から生徒が集まる教育機関ですわ。のよく知るオーキド博士や、シンオウの権威・ナナカマド博士などもこの大学の卒業生ですの。最近では転送システム開発のソネザキマサキを輩出いたしましたし、古くはニシノモリ教授が教鞭をとっていらっしゃいましたわ」
「ニシノモリ教授…、モンスターボールを開発した?」
「ええ、よくご存じですわね。失敗の中に発見あり、とはまさに彼のことだと思いますわ。そして…あら」
立ち止まったエリカに倣って、もまた足を止める。
エリカの視線をなぞると、牛乳瓶のようなメガネをかけた男が廊下の奥から歩いてくるのが目に入った。
こちらに気づいて、彼もまた立ち止まる。
「おや、エリカくんじゃありませんか!どうしました、今日は休校日でありマツよ。それに彼女は?」
「教授、紹介いたしますわ。彼女は。オーキド博士の助手で、カントーに生息するポケモンの生態調査をしているそうです。、こちらはわたくしのお世話になっているマツモト教授ですわ、当大学で講師をしていらっしゃいますの」
「初めまして、です」
出された手を握ると、ぶんぶん振り回された。
メガネに隠れて顔の表情は良く分からないけれど、何だか喜んでいるらしい。
「オーキド博士の助手の方でいらっしゃいましたか!マツモトです、よろしく。博士に助手がついたらしいと以前学会でもちきりでしたが、これほど若い方だとは……驚きでございマツな」
「はバトルの腕も素晴らしいですの。わたくし、久しぶりにレインボーバッチをお譲りしましたわ」
「なんと!今日は研究成果の閲覧のために?」
「いいえ、アレを見せようと思ってお連れしましたの。きっとの旅に役立ちますわ」
「なるほど、それは良いですな。カントーを代表するオーキド博士の助手さんを案内できるとは、私も鼻が高い。――ささ、こちらでございマツよ」
アレ、とは何のことなのか。それも気にはなるが、今は(オーキド博士ってそんなにも有名な人だったのか…)こっちの方が気になる。
それにいつの間にか助手ということになっているが……研究の手伝いをしていることには違いないから助手という名称も嘘ではないけれど、こんなにも意味と意義のあるものだとは心してなかった。
この世界に対する一切の記憶が無かった時に知り合ったとはいえ、自覚が無さ過ぎたかもしれない。
何の説明もないまま、導かれるままにポケモン科学研究所と彫られた石碑の建物に入り、廊下を進む。
そして『関係者以外進入禁止』とテープが貼られた扉に行きついたところで先導する彼は歩みを止め、懐をまさぐり始めた。
「失礼。……鍵類はいつもここのポケットに入れているはずなんですけどねぇ…、着替えた時に別の場所にいれましたかな……。――…ああ、あったあった!」
扉の上に黄ばんだプレートがはめ込まれている。もとは白色か何かだったのだろう。良く見るとそこには薄く何かが書かれていることに気付いた。
……、第…4、研究室……?
解読している間に開錠を済ませたマツモトが、ドアノブを手に振り返る。
「さ、降りマツよ。少し暗いので足元にお気をつけくださいね」
「…階段?地下に行くんですか?」
「えぇ。これからお連れする場所では、少々特殊な研究をしてますの」
腰の位置に取り付けられた小さなライトがマツモトに反応して順に灯り、足元を照らす。
見たところ、感知センサー付きのライトだ。それも新しい型のよう。
……あぁ、なにかが変だと思ったのはここだ。現役の研究室なら、新しいプレートにつけ替えるだろうに。せめてこの照明設備がつくられたのと同時代のもの程度には。それとも、使ってないようにでも見せたいのであろうか。
――いや、そんなことをして何になるというのだ。深読みしすぎだ。
足元を注視しながら、取り留めもなく考える。階段を降りると、また扉があった。しかも先ほどのものよりもずっと頑丈そうである。
「ちょっとお待ちください。この研究室はセキュリティが本当に厳しくて厳しくて…面倒でありマツよ」
そう言って扉の傍らに取り付けられた機械にカードキーをスライドさせた後、マツモトは何かを打ち込みだした。
「、この研究室にはわたくしの家と当大学が今最も力をいれて研究しているものが置いてありますの。人によっては非常に価値のあるものですから、外部に知られると少々まずいのですわ。出来れば、他言しないでいただけますか?」
「うん、エリカがそう言うなら」
「ありがとうございます。この研究室にあるのは、」
「――どういうことでありマツか!?」
!?
「どうしましたの、」
「どうもおかしいのでありマツ…。ここに入るにはパスワードを打ち込んだ後に、内の研究員にロックを解除してもらわねばならないことはエリカくんも承知でしょう。だからこの研究室には開始以降、研究員が常駐しておりマツ。…しかし誰も応答しないのでありマツよ」
「まさかそんな…教授、他に入る方法は!?」
「今からマスターキーを取りに事務局に戻るか…いや、すでに侵入されているとしたら、遅すぎマツね」
ただ自分も30分前まではここにいた、侵入者がいれば間違いなく気づく、だから侵入者がいるとしてもこの短時間の内に侵入したことになる。
今から乗り込めば、被害を止めることが出来るかもしれない。そう続けるマツモト。だがどうやって?慌てる二人の横で一人黙っていたが、口を開いた。
「扉を壊しましょう」
「!?」「さん!?」
ホルダーからボールを外す。
1、2、…3。この扉がどれほどの硬さかは分からないが、この3にんの攻撃で壊せないものなど無い。
「事情はよく分かりませんが、大切なものなのでしょう?少なくとも、この壁よりは」
「は、はい。ただここの扉と壁は侵入者に備えた頑丈なものでありマツ、並大抵の攻撃ではヒビ一つ入れられません」
「人ひとり通れる程度で良いのなら、私に任せてください。ただ、そこまでしたら中の人間にも、外部の人間にも気づかれてしまうでしょうが」
「――いいですわ、、お願いします!」
「離れていてください」、窓さえない狭い道だ、万が一何かあっても逃げ場が無い。二人には十分に下がってもらう。
「『かえんほうしゃ』『れいとうビーム』…『はかいこうせん』!!」
2009.06.19. up.
2012.02.23. 改