瞼を持ち上げると、其処はまるで暗い海だった。 けれど光も、音もない。温度さえも感じない。
例えるなら冷たい羊水。 胎児のように体を丸め漂う自分だけが、ただ一つ認識できる物象だった。

ここは……、

瞬きをしても何一つ変化のない視界に、は再び瞼を閉じた。
することが無いなら、眠るしかない。 小さく嘆息して、クロに浸食された世界を落ちる。







音の無い世界では、自分の想いさえも形にできない。 温度の無い世界では、抱きしめた体の温度さえ感じられない。
ただ一つ認識する『自分』ですらも虚無をつかんでいるかのよう。生きているのか、それとも死んだのか、それさえ全く分からない。

半端な闇が世界が広がっている。

いや、闇じゃない。無じゃない。…でも、どうして『自分』だけは分かる?拒否されないのはどうして?
まるで世俗から離れて、膝を抱えている引きこもりのようだ。――…じゃあ、ここは……、

行き着いた答えに、瞼を震わせる。
薄く開けた視界に、先ほどまでは無かったはずのシロが溢れ、クロを侵食しはじめていた。
眩しくはない。けれどその様子は、泉から湧き出た聖水が悪を浄化させているかのよう。どちらが生き易いのかは、行ってみなければ分からない。

零れたシロが、クロの世界を浸食する。
気付かないうちに、の足の先まで広がっていたシロだけの世界。 触れようと手を伸ばす。触れる。その感触は無いけれど、触れたと感じた瞬間、の目の前で、シロは爆発した。

クロだけの世界が、シロだけの世界にとって代わる。
咄嗟に目を瞑ったが、次に見たものは。

「――なんだ、ガキじゃねえか」

消えてしまえばいいのに。

思い出す初めての色が、音が、お前なんて。
……違う、私の初めての色は赤。あの子に会って、私の世界は色を知った。
……違う、私の初めての音は鼓動。あの子に会って、私の世界は音を知った。

消えてしまえばいいのに。……誰が?

『人は誰しもが心に闇を持っている』
「月の石の波長をたどってみたら、お前を見つけた」
『大きさも、その種類もみんな違う。けれど、それはその人にとっては恐ろしくて、怖くて、哀しいもの』
「その力を応用すれば、あらゆるポケモンの兵器化も可能かもしれない」
『ゴーストが見せる幻覚は、その人間の闇』
「ポケモンを仲間と思ったことはねぇな。ただの道具だ」

祈祷師は言った。 あのゴーストの見せる幻覚は、誰しもがもつ心の闇だと。
誰もが心に棲まわせているのに、誰もが目を背けようとしているものだと。

それが正しければ、この記憶はここで終らない。

この過去とは、幾度となく向き合ってきた。
病院のベッドで目覚めるまで、ループし続けた『夢』として。これ以上なく仲間を傷つけた自分の幼さと甘さを象徴する『罪』として。
後悔も反省も数えきれないほどしてきた。 だから、この記憶が闇だというのならば、見ようとしなかった過去がきっとある。

「リク――!!」

眩い閃光が、の視界を埋め尽くす。
それから色が、音が消えた。再び半端な闇に戻るかと思ったそこには、真っ白い空間が広がった。

…この技は『フラッシュ』。逃げるために、私がリクに命じた。私はサンドパンに斬られた。ハクの背に乗って逃げて、途中でハクから落ちて、気を失った。ここから一週間、記憶は途切れている。

目覚めて、今まで。記憶は全て頭の中に残っている。ならば、私の闇とは。

「――あなた、だれ?」

光に慣れようやく色を取り戻した瞳に映ったモノを、すぐには認識できなかった。
目を見開き顔を歪ませ、一歩後ずさるを一瞥して、それは口角を吊り上げる。 愕然とするの眼前で、それは弓のようにきれいな弧を描いた。

……そうか。私が怖いのは、『わたし』なのか。



「あなた、だれ?なに?」
「な、に、って」
「あなたを構成するものはなに、ってことよ。名前くらいは言えるでしょう?」
「……。、」
「そう、っていうの。でもその体は?ちょうだいよ、その体はあなたのものじゃない、私がもらってもいいでしょう?」
「!?何を…言って……」
「だってあなた、違うじゃない。あなたが持ってるのは、名前だけ。それ以外、何一つ持っていないのよ。その肌も、その髪も、その目も、みんなみーんな借り物でしょう。いつまでたっても中身だけふわふわしてる。記憶喪失?知ってるわ、私はあなただもの」

言葉を失ったの目の前で、の顔をしたナニカは歌うようにしゃべり始めた。
節をつけて、時折楽しそうにくるくると回って。

「ねぇ、人間って『人は外見じゃない、中身だ』って言葉、好きよね。でも私はそう思わないわ。外見は心に影響される。心は外見に影響される。…ふふ、何か言いたそうな顔ね。でも、実際あなたが生まれてこの身体は変わってしまったわ。汚れていく一方よ」
「どういう意味だ!?」
「あら、あなたならよーく分かっていることでしょう。わたしはだれ、なんて、ずっと怖がってきたもの。あの日からずっと、外見と中身が釣り合わないって暗に明に言われ続けきたものね、仕方がないかもしれないけれど。可哀想な子。自分の闇から目を逸らすために、戦い続けなければならないなんて」
「違う!私が旅に出たのは、オーキド博士の手伝いがしたかっただけで、自分のためじゃない!!」
「嘘」

くすくす、くすくす。
顔を歪ませるの前で、ナニカは喉を震わせる。

「嘘、嘘、みーんな嘘。あなた嘘ばっかり。仕方ないわ、あなたの存在自体が嘘なんだもの。外に出れば、自分につながる情報が見つからないか。名前が有名になれば、自分を知る人間が現れてくれないかって。…まぁ、オーキド博士の手伝いがしたい、っていうのも本心。けれどあなたにとってはどっちが大切だった?ねぇ、ちゃんと聴いてる?…あら、泣いてるの?でもその涙は誰のでしょうね」
「やめ…やめて……聞きたくない……そんな話、聞きたくない!!」

の顔をして、の声をして、が絶対に言わないことを口にする。
少女の正体が何だって構わない、この言葉は、全部の言葉なのだ。だから、闇。

「あなたは世界からはみ出した存在。誰もあなたを知らないわ。ずっと、ずうっと一人きり。苦しいわ。悲しいわ。可哀想な。もういいでしょう?あなたはこれまで一人で頑張った。ここは、あなたのための世界。ずっと幸せな夢を見ていられるわ。痛いことも、辛いことも、みんな私が代わってあげる」

傷一つない手が、へと伸ばされる。シロだけの世界でもなお映える、病的なほどに白い手だ。
幸せを見せると囁くその手はひどく魅力的で、は視線を外すことが出来なかった。

――わたしの手は、いつの間に傷だらけの醜い手になってしまったのだろう。

「おやすみなさい。――よい、夢を」


頬にひやりとした冷たさを感じつつ、は押し寄せる眠気に負け、身を委ねた。
遠く離れていく、勝者の足音を聞きながら。






「オーキド博士!ただいま帰りました」
「、おつかれさま。まずは家で休みなさい」

博士っ!違います、違うんです!それは私じゃなくて…、

「ちゃん!お帰りなさい。おじいさまのお手伝い、大変だったでしょう?」

ナナミさん!?どうして…、誰か…誰か気づいて!!私はここにいるのに……、

「ナナミさん!!ホウエンから戻っていたんですか!?」
「ちゃんが帰ってくるって聞いたから、急いで戻ってきちゃったわ」
「わぁ、すっごく嬉しいです!」
「気持ちは分かるが、どうせならこんな玄関先でしゃべらず居間に行くのじゃ。特にナナミ、は長旅から帰ってきたばかりじゃよ、疲れとるだろう。ココアの一杯でもいれるべきじゃないのかな?」
「あ!ちゃん、ごめんなさいね。今準備するから、居間で座っていてくれるかしら」
「ありがとうございます!!…あ、ちょっと用事が……すぐに済むので、先に行ってください」

オーキド博士…ナナミさん……一番近い二人でさえ、私が入れ替わったことに気づかないのなら……もう…誰も私に気づいてくれない……、だったらもう、こんな世界なんて、

「ね、分かったでしょう?『形』さえあれば、人はいくらでも騙せるの。…あら、もう聞いてないかしら。ふふ、これで私はあなたになれたわ。やっと、やっと私を見てもらえる。……もう私は、化け物じゃないんだから」




オヤスミナサイ、ガラスの眠り姫。

 

2009.06.19. up.
2012.02.23. 改

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