「じゃあ博士、ナナミさん、行ってきます。――ヒトカゲ、行くよ!!」
「カゲ!」
「明るくなったの。積極的に外に出ようともする。良い傾向じゃ。キミが来てくれて、本当に良かった。わしだけじゃ支えきれんかったからの。女の子は女の子なりの悩みがあったりするのじゃろう?」
今日も朝早くから飛び出していった二つの影を見送りながら、オーキドは隣に立つ孫に言葉をかけた。
せいぜい研究所の周りを遊び場にするに、はじめは「トキワシティのフレンドリィショップで届け物をもらってきてほしい」と半ば無理やり追い出したりしたものだが(もちろんこっそりついていったことは言うまでもない)、今ではどこまで行動範囲を広げたものやら。
「ふふ、そうですね。初めて会った時は、笑ってるのに心が泣いている子、と感じました。でも今は心から笑っているわ。私がその支えの一端になれたとしたら、幸せです」
けれど、とナナミは続ける。
「私も、あと一ヶ月で戻らなければいけません。もし、ちゃんがまた、悩みや不安を溜め込んでしまったら…」
やがて夏が終わる。秋になる前に、ナナミは留学先に戻らなくてはならない。
まだ“大丈夫”とはいえない状態のの傍にいることも、考え込みがちなの悩みを聞くことも、カントーを離れてしまっては簡単には出来ない。
オーキドに対してどこか遠慮がちだったに、良き相談相手を、と無理を言ってナナミには終業式よりも前に留学先から帰ってきてもらったが、彼女が戻ることでまた塞ぎがちに戻ってしまったら…、それが二人の懸案であった。
この頃、が一つの思いに強くとらわれて始めたことを、勿論二人は知らなかった。
―――――……
――――……
顔見知りのフレンドリィショップの店員に挨拶して、一番道路の草むらを掻き分ける。
今日もらえたサンプルは『どくけし』だった。ビードルやニドラン♂♀に刺されてもこれ一本で大丈夫!との売り文句。
今は使っていないから、とナナミからもらったポシェットの中には『きずぐすり』が二つ。他にはナナミ特製のお弁当、それからポケモンフードや治療セットが入っている。
隙間に『どくけし』を入れる。
今日はこれといった用事もないし、博士からの頼まれごともない。
「ヒトカゲ、今日はトキワの森に入ってみようか」
「カゲェ!!」
「奥は危ないから駄目だよ。大型のポケモンがいるから入ってはならん、って博士と約束したじゃない」
期待の目で見上げるヒトカゲの頭を撫で、宥める。
これまで、トキワの森には入り口まで何度か行ったが、奥に入ったことは一度も無い。
そのため森はヒトカゲの好奇心の的になっているようだ。
「それに、日が落ちるまでに帰らないと、博士たちが心配するよ。だから…ヒトカゲ、競争だ!!」
「カーゲ!!」
「ハァハァ…ヒトカゲの勝ちー…」
膝を手で支えながら、全力疾走で荒くなった呼吸を整える。
いくら相手がポケモンだといっても抱きかかえられるヒトカゲに負けるのはちょっと悔しい。
しかも結構な距離を走ったにも関わらずまったく息を切らさないで、機嫌よさそうに落ち葉をいじって遊んで…、
「こら。ヒトカゲ、一人で行っちゃだめ」
すぐに飽きたのか、勝手に奥へと進もうとするヒトカゲを呼び戻す。全く、油断も隙も無い。
両手で抱きあげて立ち上がると、すぅ、と森特有の冷たい風が、火照った頬を撫でた。それと共に、どこからか甘い香りが漂う。
視線を巡らすと、茂みの向こうにたわわに実った桃色の果実が見えた。どうやら、この甘い香りはあそこから漂っているらしい。
うっそうと茂る森は、視界が広がっている、とは言えない景観だが、まだほんの入り口であるから、強い野生ポケモンは出ないだろう。迷うような道も無い。
足元にヒトカゲを降ろし、先程の良い匂いのした木へと進む。
縁がのこぎりのようにぎざぎざに裂けた細長い葉の中に手を突っ込んで、ふっくらと盛り上がった実を一つもぐ。
触っただけでへこんでしまうほど、とても柔らかい。――齧ると、つやつやとした果肉からじゅわ、と甘い汁が滴った。
「うわぁ、すっごく美味しい!!えっと、博士から借りた資料に確か…」
ポシェットから小さく折りたたんだ紙を出し、広げる。
それはオーキドから借りた『カントー地方の環境と自然』という図鑑の一部を写し取ったもの。
「これがモモンの実か。毒消しにもなるんだって。ヒトカゲも食べる?甘くて美味しいよ」
「カゲ!」
の身長より少し高いところに生っている実を背伸びしてもぎり、ヒトカゲに手渡す。
両手で持ったモモンの実に鼻を近づけてにおいを嗅いだ後、ぱくりと食べる。「どう?」と残りの実を齧りながらがたずねると、目をきらきらと輝かせて、の服の裾を引っぱった。
「気に入った?」
「カゲェ!!」
「なら、いくつか持って帰ろっか。ナナミさんや研究所のポケモン達にも…」
「わぁぁ!!」
再び背を伸ばしたと、それを見上げるヒトカゲの間に、甲高い声が響いた。
一瞬自分の空耳かと思ったが、炎を一層大きくし、顔を四方に巡らすヒトカゲの姿にそうでないと悟る。
「悲鳴?――ヒトカゲ、行くよ!!」
「カゲ!!」
小さな声を頼りに、ひたすら森の奥へ走った。
オーキド博士の制止の声が聞こえた気がしたが、約束を破ってでも、と振り切る。
茂みを越え、川を渡る。今も断続的に響く幼い子どもの悲鳴。
恐怖が混じったその声に、ぐっと土を踏みしめ、腕を振る。
もっと!もっと早く走らなきゃ!!
一際大きい茂みを越えると、少女が目を見開いて座り込んでいた。――そして少女の目前に広がる、スピアーの群れに気付く。
「ヒトカゲ、『かげぶんしん』に『ひのこ』!!怯んだところを…『ひっかく』!!」
「カゲ!!」
「スピッ!!」
指示を出すの脇を疾風のように駆け抜け、群れに向かって炎を撒き散らすヒトカゲ。
レベル差は。数の差は。
確認するとすぐには彼から目を離し、座り込んで動かない少女の手を引き立ち上がらせた。
「走れる?逃げるよ!!」
モモンの実が生る木の前で、はようやく止まった。
少女の腕から手を離す。
「ここまで来れば大丈夫。――怖かったろ、良く頑張ったね」
「たすけてくれて、ありがとぅ」
膝をつき、少女の瞳に浮かんでいた涙をそっとハンカチで拭った。そして金色の髪を撫で、微笑む。
それを見上げながら、少女はの服の裾をきゅ、と握った。
「ヒトカゲ……」
「あの子は大丈夫。スピアーの女王様…群れのリーダーを一番に倒してすぐ逃げるように言ったし、なによりスピアー達よりずっとあの子は強いから。だから大丈夫、すぐに戻ってくるよ」
その言葉に、ぱぁっ、と顔を明るくする少女。
忘れた頃にぽろ、と一滴流れた涙を親指で拭ってやって、越えてきた茂みを見やる。
この子を護る為には、ヒトカゲに場を任せて逃げる他なかった。
かけた言葉に嘘は無い。
研究所生まれ、研究所育ちのヒトカゲには、これまでにひとりで戦った経験は無いが、あのスピアー達とは比べ物にならないほどの実力は持っている。
統率のないスピアーの様子や攻撃を観察するに、それは明らかだった。
それでもあの数。決して無傷とはいかないだろう。
「いたい…」
くすん、と鼻を鳴らした少女に、慌てて顔を戻す。
見れば膝を抱えている。そこにうっすら滲む赤い色。
「ころんで、あし、すりむいたの…」
「消毒するね。ちょっと染みるけど、我慢出来る?」
「…うん!!」
ポシェットから消毒液を取り出し傷口にかけ、仕上げにバンドエイドを貼る。
「はい、終わり。泣かなかったね、えらいえらい」
「えへへ…ありがとぅ、おねえちゃん」
少女の頭を撫でながら、これを入れておいてくれたナナミさんに後でお礼を言おうと思った時、茂みを掻き分けてヒトカゲが現われた。
の姿を認めると、ヒトカゲは嬉々として駆け寄った。そして勢いのままにタックルする。
「うわっ、」少女の治療をするために地面に膝をついていたは簡単に倒れた。
頭を思い切り打っただったが、頭を擦り付けるヒトカゲを見て眉を下げ、両手でぎゅうっと抱きしめる。
それから座りなおし、ヒトカゲのからだを持ち上げて見る。大きな怪我は無いが、擦ったような傷は全身についている。
「ヒトカゲ、おかえり。ひとりでよくがんばったね。今、『きずぐすり』を使うから、」
「まって」
ポシェットに伸ばしたの腕を、少女の小さな指が掴んだ。
「ヒトカゲ、わたしがなおす」
「え?」
その言葉の意味が分からず、ぽかんとしていると、少女がヒトカゲに手をかざした。
ポゥ、と優しい光がヒトカゲを包む。
唖然としているの目の前で、ヒトカゲの傷がどんどん癒されていった。
「『もりのちから』。たすけてくれたおれい。ヒトカゲもありがとう」
「もりの…?ううん、私からもありがとう。ヒトカゲの傷を癒してくれて。…そうだ、お家はどこ?」
「トキワシティ。…ねむぃ……」
「じゃあ、お姉ちゃんがおんぶしてあげるから、帰ろっか」
眠たげな顔をして、目を擦る少女に、は膝を折って背中を向ける。
うん、と頷いて、少女は手を伸ばした。
「…ありがと…ぉ……。おねえちゃん、おなまえは?」
「私?だよ。きみは?」
「イエロー。トキワのもりの、イエロー……」
すー、と小さな寝息を立てる少女、イエローを抱えなおして、出来るだけ揺らさないようにゆっくり歩く。
隣を歩くヒトカゲに、しずかにね、と囁き、オレンジ色に輝く森の出口へとそっと向かった。
太陽が、沈んでいく。
2009.06.19. up.
2012.02.22.改