オーキド博士の家で目覚めて1ヶ月。
歩けるまで回復したは初めて家から出た。
オーキド博士は今、家を空けている。
隣接する研究所でポケモンの研究をしているそうだ。
もっとも『ポケモン』という言葉が何であるか、は全く分かってはいない。
博士には出歩くのは許されているが、遠くに行くのは駄目だと言われている。
そのため、リハビリを兼ねて居間や台所などを巡ってみたり、簡単に掃除をしてみたりしたが、どうにも暇だった。
そこで、少し位覗いても邪魔にはならないだろう、と、隣の研究所まで歩く。
元気になったら来ても良い、とは以前言われたことだ。追い返されることもないだろう。
「おじゃましまー…」
「こら待て、ヒトカゲッ!!」
ドアノブを捻った所で、何かがドアにぶつかって、に飛び込んできた。
「ぅわっ!?」
「カゲッ!!」
胸にどすん、と重い衝撃。
その勢いのまま、仰向けに倒れる。
「か!?ヒトカゲ…お前の上にいるやつを捕まえてくれ!!」
「は、はい…!」
オーキドの言葉に、逃げ出そうとした何かを両手で挟み込む。
上半身を起き上がらせて、手に掴んだ何かをまじまじと見た。
「何、これ……生き物?」
「これがポケモンじゃよ。種族名はヒトカゲという」
「ヒト…カゲ?きみ、ヒトカゲっていうんだ」
「カゲ!」
ヒトカゲというらしいそのオレンジ色の生き物は、きょとん、との顔を見上げて、それから元気に返事した。
つぶらな瞳がきらきらと輝いている。
…暖かい、し、柔らかい。
人よりずっと温度のある両脇の下には腕を差し入れて、膝の上に抱えなおした。
「博士、これが…この子が、ポケモンなんですね」
「正確には、ポケモンの一種じゃよ。現在見つかっているポケモンは約130種。そしてこの数はこれからも増えると考えられておる。――良い機会じゃ、中へ入りなさい。色々教えておきたいことがある」
130。
こんな不思議な生き物が、この世界には少なくとも130種類いるのか。なんて不思議な世界だろう。
ヒトカゲ、という胸の中の温かみをそっと床に下ろし、は立ち上がって博士の後を追った。
この研究室には、今のところ20数種類のポケモンがいるそうだ。
普段はモンスターボールという名前のアイテムに収められている、とその内の何種類かを見せられた時、は眩暈がした。
亀のようで亀でなく、鳥のようで鳥でない、不思議な不思議な生き物。それがポケットモンスター、略してポケモンというらしい。
掌に収まるほどのボールが、いくつも机に置かれている。
それを覗くと、見たこともない生物がこちらを見上げている。
博士に促されて真ん中のボタンを押すと、ぼんっ、と現われる様々なポケモン。
何でこんな大きいのがこんな小さなボールに入ってるんだ…。
オコリザルが……、これはポケモンの本能によるもので……、説明されても、正直まったく理解できなかった。
研究所に通うようになって3日。
オーキドの傍らで、邪魔にならないようにポケモンと戯れていたは、パソコンになりやら打ち込んでいたはずの彼が、いつの間にか己を見ていたことに気付き、顔を上げた。
「博士?」
「本当に、ポケモンのことを知らんのじゃな」
「…みたいです、ね。――私、ほんと、どこから来たんだか…。自分の名前は覚えているのに、それ以外は何にも、なんて、都合の良い記憶喪失ありませんよね」
今まで遊んでいたコラッタをボールに戻し、ソファーに腰掛けながらは続ける。
ポケモンがいなければ生活できないこの世界で生きてきて、ポケモンを知らないことなんてあるのだろうか。
存在自体を忘れてしまいたいほど、トラウマになるようなことがあったのか。それとも、生活の仕組みが違う別の国から来たのか。
いや、そうじゃないかもしれない。もしかして、はじめから“無い”のだとしたら。
「カーゲ?」
「ん、いいよ」
あの日からを気に入ったらしいヒトカゲは、を窺った後、ボールに戻ろうとはせず隣に座った。
「もしかして、初めから何も無かったのかも。ポケモンが存在しない『どこか』に私はいたのかもしれない。そう思えば、納得できるんです。何も分からない理由が。博士のことも」
考えている間に、オーキドは何かを作ってくれたらしい。
渡されたマグカップを、両手で包む。
の好みに合わせた少し甘めのココアは、暗く沈もうとするの心を優しく浮上させた。
「博士、電話で言ってましたよね。『』たる人物は、存在しなかったって。…すみません、聞くつもりはなかったんです。けど、ちょうど通りかかったときに私の名前が聞こえたから…」
「、無理に笑わなくても良い。ここには、わしとお前しかおらん」
親も、自分の居場所も、何も分からない。
自分を知っている人が、誰もいない。
けれど、今は、暖かさを知ったから、不安を少しでも紛らわせることが出来ている。
マグカップを机に置いて、隣でうとうととしているヒトカゲの頭を撫でた。
目を開き、見上げる瞳に、小さく笑いかける。
「いいえ、この子もいますよ。――私、この子たち…ポケモンのことが好きです。大好きです。だからこの世界で生きたい、って今は思えてます」
そして、こうしてオーキド博士に出会えて、本当に良かったと思う。
何も分からない私に、この世界の素晴らしさ教えてくれたのは、オーキド博士だから。
紹介したい人物がいる、と言われたのは、夏の訪れを感じさせる風が吹く日だった。
次の日、昼食の準備をしていたは、インターホンの音に手を止めた。
振り返るまでもなく、インターホンの音を聞くのは初めてだった。
がここに住むようになって季節は2度変わったが、その間に研究所や家に訪れる者はいなかった。
マサラタウンはただでさえ住民が少ない上、研究所や彼の家は町の外れに位置しているため、周囲を歩いていても人に会うことはない。
そのため、はオーキド博士以外の人物と直接顔を合わせるのは、これが初めてなのである。
どきどきと鼓動する胸に手をやりながら、ドアスコープに背を伸ばす。
博士には朝方、昼頃に訪問者が来るだろうから、迎え入れて、ついでに研究所に呼びに来て欲しいと言われている。だから決して不審な人物じゃないのだろうけれども。
茶色の髪に、緑色の目。地面に置かれた大きな荷物。
「写真の人だ」目を凝らしたまま、は思わず呟いた。
家の居間と、研究所に飾られていた写真に写っていた女の人だった。
スコープから覗いた姿は写真よりも少し大人びて見えたけれど、同じ人だ。
だったら、この人は…、
鍵を外し、ドアノブを捻る。
「あ、え、と…こ、こんにちは!」
「こんにちは。初めまして、ちゃんね。おじいさまから聞いてるわ。私はナナミよ。よろしくね」
写真よりも本物はずっと綺麗で、しかしオーキド博士と同じとても暖かい笑顔を浮かべている。
それを見上げながら、何故だかは無性に泣きたくなった。
2009.06.19. up.
2012.03.18.改