「この街、本当に良いところですよね。――シンオウはどこも美しいけど、住むならこの街がいいなぁ…」
がそう言ったのは、いつのことだったか。思い出そうとすれば、忘れていたことが不思議なほどすぐに思い出せた。
あれは奇妙な共同生活を始めて3日目の、夜のことだった。
シンクで二人並んで立つ事にデンジが違和感を覚えなくなった頃、はぽつりと漏らした。唐突で、独り言のような呟きだった。
棚にポケモン用のフードボウルを仕舞いながら横目で窺うと、は洗ったばかりのつるりとした群青色の皿を手にし、目を細めていた。
その皿は貰い物で(といっても、食器のほとんどが貰い物なのだが)、ろくに開封もせず何年も収納棚に突っ込んであったそれを発掘したのは、やはりというかだった。
デンジにとってその群青はナギサの海の色だ。出身の異なるには違うものが見えるのだろうと腹を満たしながら思っていたが、もまた同じものを思い浮かべていたようだった。
デンジの視線に気づくと、少し恥ずかしそうに目を逸らしながら「デンジさんの街ですもんね」とは微笑んだ。いったいどこに修飾する言葉なのか、そのとき全然分からなかった。今でも分かってない。
けれどだったらこのまま住めばいいのにと柄にもなく思い、そうなればいいのにと改めて思った。言えば少し困った顔をしながらも、最後にははいと答えてくれるだろう。それだけの好意を向けられている自覚はあった。
結局、何も言い出だせないうちに、じゃあまた明日とは背を向けた。
また明日、また明日と先延ばしにしているうちに、…――
誰かの気配を感じ、デンジは腕を下ろし目を開いた。
「………」
いつの間にか目の前にルカリオがいた。傷だらけの身体に手には何故かハイパーボールを持って、強い眼力でデンジを見上げている。見合ったまま、ふたりは膠着した。
背後からレントラーがのそりと近寄り、デンジの傍に腰を下ろした。我関せずの体で、爆風で乱れた毛並みを一舐めすると、毛づくろいを始める。その姿には敵意のかけらも無い。
獅子好きでなくとも十人が十人和んでしまいそうなレントラーの姿に、思わずデンジの身体の緊張も解かれる。冷静になれば、この目の前にいるポケモンが野生でないことは、すぐに見て取れた。
「お前…のルカリオか?」
問うと、ルカリオは小さく頷く。
あぁ、爆音が轟く前に聞こえた声は聞き間違いではなかった。はここにいる。でもこの6日間、どこでなにをしていたんだ。元気でいるなら一言そう連絡してくれれば良かったのに。
……。
分かってる。そんな子じゃない。連絡できない事情があった。姿を見せないのは、見せられない理由があるからだ。
「は?」
そう問うと、ルカリオが岩壁を見る。
はあの崖の上にいるのだろう。そういえばルカリオが現れた場所もあそこだった。人力では到底登れそうにない崖だ。
レントラーをボールに戻して、別のボールを開放する。チマリの話を聞いていなければ、対策をしていなければ、ここにきて足止めになっていただろう。
「エレキブル、『ロッククライム』」
デンジよりわずかに身長が高いかどうかといったエレキブルには、デンジを乗せながら尚且つ登るということはできない。
そもそも覚えさせたばかりで一度も使ったことのない秘伝技。さぁ登れという方が間違っている。さすがジムリーダーのポケモンと言うべきか安定感だけは抜群にあったが、下からデンジを支えながらでは亀よりは早いかというスピードだ。亀が崖を登るかは知らないが。
対してルカリオはサルのような身軽さで登っていった。時折エレキブルとデンジを待つように伺ってはいたが、デンジが難所を攻略すればすぐに顔を戻して登っていった。
反り返るような最後の難所を越えるときは、ルカリオはデンジの手を引いた。その前脚と下からの腕に支えられながら、最後の岩を踏み込み、デンジはようやく平地に立ったのであった。
慣れないことをしたせいで手が痺れている。
拳を開いたり握ったりして感覚が戻ったことを確かめてから顔を上げたとき、ルカリオの姿はすでに無かった。慌てて姿を探してみれば、この一瞬で、と驚くほど向こうにその姿はあった。『しんそく』でも使ったのか。
――があそこにいる。どう声を掛けるべきだろうか。無謀な冒険を叱るべきか。家族が心配していると伝えるべきか。まさか兄が、そして前チャンピオンがこの地方に来ているなどと思いもしないだろう。
それとも、ただおかえりといえば良いのか。
掛けるべき言葉が分からないまま後を追って走ると、膝をつくルカリオの姿に半分隠れて、花畑に座り込む人影が見えた。
「――…ルカリオ、ありがとう。それと、誰かいた気がしたんだけど、気のせいだったかな?いたなら、お礼しないと、」
風に乗って、細く、途切れがちな声が届く。思わず、気の利いた言葉ひとつ思いつかないままに駆け寄った。
「」
声をかけると、ルカリオが横にずれた。の姿が露になる。
思わずデンジは息を呑んだ。
服は泥に塗れ、所々が破れている。特に右脚の部分が酷く汚れている。
…いや泥だけじゃない。血だ。左手にはルカリオから受け取ったボール。「、」
闖入者の声に、はやっと第三者の存在に気づいたように顔を上げた。
頬にも泥がついている。デンジが膝をついて手で拭ってやると、それには反応せずにぱちぱちと目をしばたかせて、うそ、と呟いた。
「ごめん。遅くなった」
「え、デンジさん…です、よね?――え、どうしてここに?夢?やっぱりこれ全部夢ですか?」
「しっかりしてくれ。大きな傷は足だけか?」
もしかして三途の川?確かに花畑だけど、とぶつぶつ呟くの全身を、怪我の有無を確認するために視線を走らせる。
デンジの視線には身じろぎをすると、目をそらすようにして左手でボールを腰に装着した。
? は右利きじゃなかったか?
ふとした違和感に、右手に手を伸ばす。
「あ、そこ折れてっ!」
触れる直前、は咄嗟に左手でデンジの手を払った。
パシッ、と軽い音が響く。
「あ……」
呆然とした顔で、は自分の手と行き場を無くして宙に浮かんだデンジの手を交互に見た。それからデンジの手を慌てて掴んで、少し赤くなった手の甲に申し訳なさそうに眉を下げる。
「ごめんなさい!痛かったですよね!?…その、右腕、折れてるんです。触ると痛くて」
「いや、こっちこそごめん、大丈夫か?…わるい、大丈夫なわけないよな」
「いえ、実は痛みとか、あまり感じなくなってきてて……。あの、色々聞きたいことはあるんですけど、とりあえずそこに転がってる鞄から応急セットとってもらえます?」
「この傷だって見た目ほど深くないんですよ。斬られてすぐにガーゼと包帯で縛ったんですけど、走っている途中に解けてしまって」
「きつさは?」
「あ、そのくらいで大丈夫です。――デンジさんはやっぱり器用ですねぇ」
はさみで包帯を切り、縦に裂いて結ぶ。出来た、と手を離すと、が覗き込んで賞賛した。
はじめデンジは傷を見ることすらに拒まれた。異性に太ももをまじまじと見られることは、いくら事態が事態だとしても、避けたいものである。
しかし利き腕が動かず、左手でたどたどしく巻かれていく包帯を放置するほど、デンジは落ちぶれていなかった。
包帯を取り上げ、ついでに救急セットも奪う。怪我と貧血(誰が見ても大量出血だ)でろくに動けないから届かない場所にそれらを置いてしまえば、大人しく足を差し出すほか無かった。
「鬼畜…」と小さく呟いてそっぽ向いたに、新境地を見出しかけたのはきっとデンジの気の迷いである。
水と消毒液で洗い流してみれば、傷自体はそれほど深刻なものではなかった。当然ろくに止血もせず走り回っていればそれ相応の出血はする。けれどあんなものを相手にしていてよくこの程度で済んだと思える範疇だ。
小さな切り傷・擦り傷には絆創膏。右腕には添え木をして包帯で巻く。
「今から病院に運ぶ。出来るだけ揺らさないように気をつけるけど、」
「大丈夫です、我慢できます」
こぶしを握ってみせるが顔色の悪さは誤魔化しきれなかったようで、無理はするな、休憩は入れるからと言われる。
ルカリオに支えられながらやっとのことで崖から降りると、次はデンジに支えられながら、レントラーの背に乗る。
体中に傷をこさえながら常時縦に横に揺れるギャロップの背に乗るのは到底無理である。その点レントラーは体格的にも優秀で、尚且つお利口さんだった。
(の乗るレントラー)の隣には回復をすましたルカリオ、デンジの隣にはライチュウ。野生ポケモンを警戒するようにきょろきょろと見回しながら歩いている。その姿はどこか誇らしげで、「そういえばゴールドスプレー持ってたんだった」などと言い出せる空気ではない。
あぁ、でも。レントラーって、改めて見るとデンジに似ている。いや、デンジがレントラーに似ているのだろうか。ぐるぐる視界が回る中、はぼんやりと考える。
今度レントラー育てよう。彼のように三色牙を覚えさせよう。散々苦労したシロナのミロカロス対策にもなる。ガブリアスが来たら『こおりのキバ』。今度は負けないように、そうだ、ニックネームをつけてみるのもいいかもしれない。
ニックネーム、ニックネーム…どうせ名前をつけるなら、強いものの名前を冠しよう。強いもの、強い、最強、最強といえば、
「デンジさん」
だよね、やっぱり。レントラーのもふもふの毛を撫で回しながら、は無意識に呟いた。
「なに?」
草むらを徒歩で進むデンジが、振り向いて少し顔を傾けた。
え?と素で返して、は慌てて口を押さえる。背中に冷や汗が流れた。
聞かなかったことに…、――してくれませんかそうですか。
なに、と聞かれても、捕まえてもいないレントラーのニックネームを考えていましたなどと言えるわけがない。それどころか『デンジさん』とつけたらあらゆる意味で勝てそうだとか考えていたこと(もちろん本気ではないけど!!)、言えるわけが無い。
しかし咄嗟に上手い言い訳が思いつかない。は口を開いては閉じるを繰り返した。あーだとかうーだとか、言葉にならない音が漏れる。
デンジは振り向いたまま、もう一度なに、と繰り返した。
口にするつもりでなかったのは見れば分かっただろうに、察するつもりも、空気読むつもりもないらしい。やっぱおにちく、じゃなくて鬼畜。そんなんだからオーバさん以外に友達いないんですよ!……な、何か言わなければ。
「あー、…あの、ほんと気にしてないんですけど、」
「うん、」
ここで『どうして迎えに来てくれたんですか?』なんて聞ける勇気があったら。常々思うが、思うだけで実際聞く気はこれっぽっちも生まれない。
せっかく親しくなれたというのにそれ以上に迷惑をかけたことは、さすがに自覚している。
好意を持たれているかどうかでいったら、スタート地点から2歩進んで、5歩下がった状態だ。大後退だ。まだリセットしてやり直したほうが良好な関係を築けるだろう。
今回で呆れられて、もはやどうでもいい存在と思われているようなら、大人しく引き下がって、全部忘れようと思う。けれどもしデンジが万に一つの可能性でまだ受け入れてくれているなら、諦めるのはまだ早いだろう。
どちらにせよ、今日は一日入院コースだろうし、利き手は当分の間包丁を握れない。治す間にジムは完成するだろう。ナギサジムに通う理由が無くなる。自業自得だとはいえ、これからの道を選択するライフカードは残り二枚。実家に帰るか、ナギサに帰るか。
「『帰ってきたら話がある』は、もう無効ですか?」
「……」
「…デンジさん?」
無言が、痛い。
さっきまでの積極性は何だったのかと思わず聞き返したくなるほど、デンジは押し黙った。無意識にか彼の歩みが遅くなり、レントラーの隣に並ぶ。
下を向かれると、どんな表情をしているのか分からない。
傷つかない言い方を考えてくれているのだろうか。そんな簡単に傷つきやしないのに。
やっぱり何でもないです、とが口を開こうとしたとき、デンジはやっと顔を上げた。
「」
「はい」
「ナギサの街は好きか?」
? そんなの、当たり前だ。
キライだったら初めっから拠点にしてない。いくらデンジが生活破綻者だったからって、ナギサに住まなくても約束を果たすことは出来た。
人は優しいし、ご飯は美味しい。ホウエンとはまた違うナギサの海は好きだ。なにより、デンジがいる。
「大好きです」
「じゃあさ、――…いや、やっぱりなんでもない。早く治せよ、それ」
「はぁ……え、今ので誤魔化したつもりですか!?」
病院に搬送されるまで、いくら蒸し返してもデンジは答えてくれなかった。
2011.09.01.改